ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき
藤原清輔朝臣
藤原清輔朝臣(ふじわらにきよすけ・あそん)。
この人、
秋風にたなびく雲の絶えまよりもれ出づる月の影のさやけさ
と歌った79番、左京大夫顕輔の息子さんです。
でも、どういうわけだか、この人、その父親からうとまれたらしい。
とはいえ、さすが親子というか、お父さんの歌もすっきりとけれんみのない歌だったが、息子の方の歌も淡々としていながら、なかなか味わい深い。
この歌、解説すべきような、むずかしいことばはないですね。
というわけで、
今はつらい。
でも、時がたてば今のことがきっとなつかしく思われるだろう。
だって、あんなにもつらいと思っていた昔のことが、今はこんなにも懐かしいんだから。
と、歌の訳を書いてもいいのだけれど、私なんかが書く無味乾燥な訳なんかより、この歌の現代語訳としては、私が台所で料理しながら時折口ずさむ、中島みゆきの「時代」の歌詞を載せる方がずっといいでしょう。
今はこんなに悲しくて
涙もかれ果てて
もう二度と笑顔にはなれそうもないけど
そんな時代もあったねと
いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
まわるまわるよ時代はまわる
喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも
生まれ変わってめぐりあうよ
まったくこの通りのことを歌った歌です。
清輔さんの歌もいいが、中島みゆきの歌も名曲ですなあ!
ところで、この歌、三条院の
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
に、用語も発想も似ているように見える。
けれども、歌の姿というか、声調というか、それはずいぶんちがっている。
三条院の歌には、自分の「今」に対する、ひりひりするような痛切な思いが裏にあるのが見える。
今あるもののうちで、唯一の「よきもの」としてある今宵の月を、今よりもけっしてよくはなりそうもない未来において、「恋しかるべし」と歌っている。
三条院の歌は、未来のことを歌ったかに見えながら、今の自分のことでいっぱいの歌だ。
言うなれば、三条院の歌は「今の自分の視点」の絶対化から歌われた歌だと言っていい。
一方、清輔の歌には、「今の自分の視点」の絶対化というものはない。
歌は、何の具体物を述べないまま、ただ淡々と、未来から現在、そして現在から過去へとさかのぼらせるばかりである。
その結果生じるものは、「今の自分の視点」の相対化である。
憂しと見し世ぞ 今は恋しき
と、過去の自分の意識(視点)を現在の意識によって相対化させた視線は、現在の自分の意識をも、
ながらへば またこのごろや しのばれむ
と、未来の視線を先取りすることによって相対化させるのである。
そして、そのことが、人生というもの自体への客観化につながっている。
三条院、享年41。
清輔、享年73。
生きた年月の差だけが、このような二人の歌の姿の差を生みだしたとは思わないが、清輔の歌には、どこか年をとった苦労人が、淡々と人生に対する感懐を述べているような趣きがある。
じいさんである私は、いい歌だなあ、と思う。