世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮太夫俊成
皇太后宮太夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶ・しゅんぜい)。
定家の父親で、『千載集』という『新古今集』の一つ前の勅撰集の撰者です。
この人も長生きで九十一歳まで生きた。
この歌、二句切れですね。
《世の中よ 道こそなけれ》。
「世の中」というものは道がないものだなあ!
(「世の中」については後で考察してみます)
《思ひ入る》。
「深く思いこむ」「一途に思う」
という意味だが、そこに
「望んで入る」「慕って入る」
という意味が重なって、なおかつ、「入る」「山の奥」と掛かかっていく。
《山の奥にも鹿ぞ鳴くなる》。
ここで「山の奥」は「世の中」と対比されているんです。
俗塵にまみれた「世の中」と、きよらなる「山の奥」。
「鳴くなる」の「なる」は「伝聞推定」の助動詞〈なり〉の連体形です。
男もすなる日記といふものを、女もしてみんとてするなり。
君はもう、この『土佐日記』の冒頭の文で、「断定」の〈なり〉と「伝聞推定」の〈なり〉の区別はつくようになっていますよね。
終止形接続が「伝聞推定」、連体形接続が「断定」。
もっとも、この「鳴く」は四段の動詞だから終止形と連体形の区別はつかない。
けれども、「鳴く」という音を伴う動詞ですから、これは「伝聞推定」の助動詞だとわかる。
このようなとき、意味は「・・・のようだ」「・・・らしい」ではなく、
「・・・が聞こえる」
です。
とまあ、語の解釈はこうなるんだろうが、実を言うと、歌全体が、私にはよくわからない。
それというのも、「世の中」と「道」がよくわからないからだ。
「世の中」が、単純に
①「世間」「社会」
を指しているのか、あるいは
②「この世」「現世」
という意味なのか、はたまた
③「男女の仲」「夫婦の仲」
ということなのか、それによって「道」の意味もちがってくる。
たとえば、①「世間」「社会」の意味でとれば、このごろの日本の政権のありさまや世界の情勢を見ていると、私だっておもわず
「世の中よ道こそなけれ!」
と言いたくもなるが、この歌の「道」はそんな「政道」ということではないだろうし、「道徳」なんてことでもなかろう。
②の意味にとれば、仏道、悟りの道といった「道」になるんだろうが、そして、それをきわめるべく、出家隠遁もし、「山の奥」にも入るんだろうが、そこに「も」、鹿の声が聞こえた、という。
鹿の声が仏道修行の妨げになるんだろうか。
となると、③の「男女の仲」だろうか。
この世にいる限り、愛やしがらみから逃れ出る道がない、といっているのかしら。
たぶんそうなのだろうけれど、だからといって、別にあんた、わざわざ山の奥に入ることもないだろう、と思ってしまう。
などとぐだぐだ思ってしまうのは、要は私には、当時の人たちが何かといえば、すぐにしてしまう「出家隠遁」ということが、よくわからないということなんだろうと思う。
「世を捨てる」という、中世の人々にはわりとあたり前だった感覚が、現代人の私には失われてしまっているのだと思う。
それが「進歩」というべきものかどうか、私は知らない。
でもまあ、訳してみよう。
この世の中に道なんてない!
そう、深く心に思い
世を逃れ分け入ったこの奥山
しかし、ここにも鹿の鳴き声が・・・。
あれは妻を求める声
あゝ、
私の心の奥にもまた未練の思いが・・・・。
たぶん、こんな意味なんです。
でもほんとうにどうかは保証できない。
でも、まあ、こんな鑑賞もあるということで、ご容赦。