思ひわび さても命は あるものを
憂きにたへぬは 涙なりけり
道因法師
道因法師(どういんほっし)。
この人、九十歳を超えてずいぶん長生きしたらしい。
七十、八十になるまで住吉明神に「秀歌詠ませ給へ」と毎月参詣したという。
で、この歌、その甲斐あっての「秀歌」か、どうか。
いきなりですが、愛ちゃんの「国語便覧」の訳を書いておくと、こうなっている。
恋のため思い悩んでいても命はつないでいるのに、それでも、そのつらさに耐えられずに流れてしかたのないものは、涙であることだよ。
そうだったのか!
知らなかった。
私、全然これが恋の歌だなんて思っていなかった。
とりあえず、ことばを見ていきます。
《思ひわび》。
悲しい思いをする。思い悩む。
上の訳に従えば、恋の相手のつれなさに思い悩み、身のつらさを嘆いているわけです。
《さても》。
そうであっても。
あとは、何もむずかしくない。
で、上のような訳になるらしいのだが、うーん。
この人が長生きしたということは知らなかったのだけれど、それでも、
「さても命はあるものを」
ということばは、恋の悩みというよりは、むしろ、老いの嘆きや繰り言みたいに私は思っていた。
思い悩むことがいっぱいあるけれど、
それでも命だけは長らえているのに、
涙ってやつが、
この老いのつらさに堪え切れず時折流れてしまうんだよな。
というような意味だと思っていたのだ。
でもまあ、考えてみれば、だいたい人間というものは、年をとると涙もろくなるようにできているのだが、それは、他人のけなげな姿を見た時そうなるのであって、年よりというものは、なかなか自分のことでは泣くもんじゃない。
というか、泣かない。
となると、やっぱり、恋の歌、ってことなのかと思うが、それにしては、この歌、あまりにひどい。
百人一首の中で「なりけり」で歌いおさめた歌は、ここまでに二首出てきた。
山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり
嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけり
一首目の春道列樹の歌には、まだ、流れによどむ紅葉っていうのは、実は「《風のかけたるしがらみ》だったのだな!」という発見がある。
けれども、二首目の能因法師の歌とこの道因法師のには発見がない。 道因の
身のつらさに、命さえ堪えているのに、こらえられないのは涙だ
なんてのは、発見でもなんでもない。
ただの理屈である。
さきに「国語便覧」の訳をわざわざ載せたのは、たぶん、これ以上この歌にふさわしい訳がないように思えたからだ。
つまり、「なりけり」の訳として「であることだよ」という、少しも内実をともなわない無粋な参考書的訳語がこれほどふさわしい歌もないだろう。
つまり、この歌、理に落ち過ぎて、歌としての力がどこにもない歌である。
たぶん「なりけり」という語がすべてをダメにしているのだ。
だから、今回は元の歌よりも私の歌の方がまだマシかもしれない。
(な、わけないか)
つらくても なんとかこらえて 生きてたが
涙ばかりは こらえきれぬぞ