ほととぎす 鳴きつる方(かた)を ながむれば
ただ有明の 月ぞ残れる
後徳大寺左大臣
後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)。
藤原実定。
この人の生きた年代は、年譜によれば(1139 - 1191)。
「イイクニ」が、頼朝が征夷大将軍になった年だってことは、あなただって知っているから、おおよそ時代の見当はつきますね。
この人、左大臣にまでなったけれど、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱を経て、この人が生きた時代の後半は、要は平家全盛期だったわけです。
ちなみに、この人は百人一首を編んだ藤原定家の従兄弟です。
そうそう、忘れていましたが、「後徳大寺のおとど」といえば、この人のこと、彼から150年ほどあとに生きた兼好が、徒然草の中に書いていましたね。
後徳大寺大臣、寝殿に鳶(とび)ゐさせじとて縄を張られたりけるを、
と始まる文章です。
たぶん、一年生の時に習った。
覚えてますか。
第十段の文章です。
さて、詞書に曰く、
暁聞郭公(あかつきにほととぎすをきく)といへる心を詠み侍りける
とまあ、そういう歌です。
《ほととぎす》。
鳥です。
初夏になるとやって来る。
古今集の巻三、夏歌、なんてのは「全巻、これ、ほととぎす」って言ってくらいのもので、王朝の人々はこの鳥が好きなんですな。
鳴き声がいい。
子どもの頃は「テッペンカケタカ」と鳴く、なんて教わったけど、あんまりそうは聞こえない。
ただ、特徴的な鳴き方なので、すぐにそれとわかる。
実を言うと、この部屋でも五月、六月になるとその声が聞こえることがある。
漢字で書くと、「時鳥」、「郭公」、「不如帰」、「子規」。
詞書にあった「郭公」なんて、どう考えても「カッコウ」じゃないか、と思うが、これでも「ホトトギス」。
そこへいくと「不如帰」の方が、なんとなく鳴き声をうつしている感じがする。
明治期、俳句・短歌の革新運動を起こした正岡子規の「子規」の号は、このホトトギスから来ている。
ホトトギスは鳴いて血を吐く、という言い伝えがあって、子規は肺病で喀血したのでこういう俳号にしたんです。
とまあ、あとは何にも説明することばはないですね。
この歌、訳は書きません。 代わりに、想像してごらんなさい。
五月、あなたは本を読んでいる。
あるいは、誰かにお手紙を書いているのでもいい。
はたまた、1学期の中間テストの勉強をしているのでもいい。
夜明けはまだ遠い。
あなた以外、家の人たちは、みな、すっかり寝静まっている。
街も、通り過ぎる車の音が時折するばかり。
そんな時、不意に窓の外から
ピョッピョッピョピョッピョ、
ピョッピョッピョピョッピョ
鋭い鳥の声。
ホトトギス。
あなたは、はっとして、顔をあげる。
そして声のした方に目をやりしばらく待つ。
けれども、もう声は聞こえない。
窓から見えるものは、ただ明けやらぬ空とそこにかかる有明の月があるばかりです。
どうです?
わるくないですよねえ。
私、ワルクナイと思うなあ。
この歌、詞書、「暁聞郭公」という心を詠んだとある。
実景ではないかもしれない。
けれども、題に合わせてでっち上げた歌ではないことがわかる。
現代の私たちにもわかる実感がある。
いい歌なんです。
ただ淡々と叙しながらそれでも心に残る。
特に最後に
ただ有明の 月ぞ残れる
とあるのがいい。
まるで、あのほととぎすの声が夢だったように、ただその余韻だけが残る空に月だけがある。
いいなあ!
こういう技巧のない歌は、かえって書き変えようがない。 まあ、これまでの書き換えた歌もひどかったが、こういう歌はそれが際立つ。
それでも、やるのがしきたりなので。