難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき
皇嘉門院別当
皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)。
皇嘉門院というのは、「瀬をはやみ」の歌を詠んだ崇徳院の皇后のこと。
「別当」というのは「長官」ということですから、この人は皇后付きの女官の長官だったということです。
(ちなみに、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』の中には、《山猫さまの馬車別当》という「字もなかなかうまい」たいへん愉快な男が出てきますが、そこでの「別当」の意味は、「長官」という意味ではなく「馬丁」――つまり「馬の飼育係」とか「御者」という意味ですよ。)
詞書に曰く、
摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋といへる心を詠める
というわけで、これは「旅宿に逢ふ恋」という題詠です。
つまり「旅先での一夜の恋」ですね。
どんな恋なんでしょう。
さて、この歌、久しぶりに序詞、掛詞、あるいは縁語といった修辞技法がたくさん出てくる歌です。
《難波江の蘆の》。
「難波」といえば、これまで百人一首にはこんな歌が出てきました。
十九番 伊勢
難波潟みじかき蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや
二十番 元良親王
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思ふ
こうやって並べてみればわかりますが、この皇嘉門院別当の歌には、伊勢の歌に出てきた《蘆》が出てきますし、元良親王の歌にある《みをつくし》も出てくる。
つまり、《蘆》や《みをつくし》は《難波江》の縁語ということになります。
要は、当時の人たちは、《難波》と聞くと、すぐに《蘆》や《みをつくし》というものが連想されたということですね。
《テラ》といえば《いれば》みたいなもんですな。
テラニシと いれば今宵も 酒飲みて わけのわからぬ ことを言ってら
なんて歌があったとしたら、これもなかなかの表現技法だという人もいるかもしれない。
・・・などというばかげたことはありえないが、縁語なんてのはまあ、その程度のものだと思っていればいい。
すくなくとも、高校の先生がおっしゃるほどにたいした表現技法ではない(と私は思う)。
そう言いながらも、ついでに言っておけば、《わたる》も《難波江》の縁語です。
これは「江を渡る」という縁ですね。
縁語とは言えないんだろうけれど、「難波」という字に「逢ふ」とか「恋」とかいう語が重なるこれらの歌を見ていると、そこに「難しい恋」とか「逢ひ難い逢ひ」とかいった意味を、私なんぞは勝手に読みとってしまうのだけれど、そんな解釈はどこにもないらしいのはちょっとさみしい。
まあ、それはそれとして、念のために書きますが、《みをつくし》が、《澪標》と《身を尽くし》の掛詞だということは、あなたはもうわかっていますね。
さて、この《難波江の蘆の》は次に来る《かりね》を引き出すための序詞です。
「蘆の刈り根」というわけですが、この《かりね》が「仮寝」と掛詞となって、歌の本題へと続いていくわけです。
《ひとよ》。
これが、また掛詞です。
伊勢の歌のところでも書いたと思いますが、「よ」ということばは「世」や「夜」のほかに「節」という語も当てられます。
したがって「蘆の刈り根のひと節」、つまり「短い」ってことですが、それと「仮寝の一夜」が掛けられているわけです。
《みをつくしてや 恋ひわたるべき》。
「みをつくしてや」の「や」は、疑問・反語の係助詞ですね。
ですから「べき」と連体形で閉じている。
「恋ひわたる」の《わたる》は動詞のあとについて、「ずっと…し続ける」という意味を表しますから、「ずっと恋し続ける」ということになります。
そして、先ほど書いたように、《わたる》は《難波江》の縁語にもなっています。
ところで、この「や」が疑問なのか、反語なのかという問いは、受験以外ではたいして意味がない。
なぜなら、人が問いを発するとき、それは常に反語の意識をもってなされるものだからです。
ですから、「みをつくしてや 恋ひわたるべき」という言葉は 「身を尽くして、あの人を恋い続けなければならないのか」 という疑問の裏に、「そんなことをすべきではないのに」という思いがあることは明らかです。
そして、ここには、にもかかわらず、実際にはその人を思い続けてしまう女ごころの煩悶あるいは哀しみがあることを見てとればいい。
都を離れ訪れた難波江の
あの仮寝の宿に一夜を過ごしたあの人との逢い
難波江の蘆の刈り根の一節にも満たぬ短くはかない逢い
あれはただの行きずりの恋だったはず
それなのに なぜ私の心は揺れてしまうのか
まるで波間に揺れるあの澪標のように
ああ、
私はこれから先も こうやって身を尽くし
心を尽くしてあの人のことを思い続けなければならないのだろうか
たしかに、これは女の人の歌だなあ、と男の私は思うわけだが(つまり、仮に、行きずりの恋なら、男はこんなふうにはけっして思わないだろうと思うわけだが)、とはいえ、女の人がみなこのように思うものなのかどうか、それはわからない。
それにしても、同じ難波を歌いながら、
逢はでこの世を過ぐしてよとや
と恨みをうたった伊勢や
みをつくしても逢はんとぞ思ふ
と叫んだ元良親王の、二人直情をぶつけるような歌と並べてみる時、彼らから二世紀以上も過ぎたこの歌のなんとその姿のちがっていることか。
もちろん、うたわれた題材がちがう、といえばそれまでだし、前二者が、自らの境遇の中で自らの思いを歌に託し歌ったのに対し、かたや題詠であるというちがいもあることはもちろんのことだろう。
題詠が凡手によってなされるとき、類型・類想的駄作の量産をもたらす側面は否めない。
けれども題詠というものが、常に歌の力を弱めるかといえば、けっしてそうではないことも見ていかなければならないだろう。
題詠であることが、その事柄をより多面的に、そしてより客観的に眺めさせることとなり、そのことが、事柄の本質に、より肉薄した表現を選ばせることになる面は見逃せないと思う。
けれども、そのような理屈を抜きにしても、これらの歌を並べ読む時、王朝の隆盛期とその終末期においては、なにか人のかなしみの質さえも変わっているように私には思える。
皇嘉門院別当のこの歌が、自分の経験に根ざしたものかどうかは知らない。
けれども、「旅宿逢恋」という題のもと、彼女の歌は、そういう状況にたちいたった女が抱く哀しみを、心の深いところでつかまえているように思う。
この歌、ずいぶんと技巧を凝らしていると、先の解説には書いたが、その技巧はけっして表立ってはいない。
むしろ、その技巧は、歌の中に溶け込みながら、彼女がうたおうとした、蘆の「一節」にも満たぬ短い「一夜」の逢いを「一生」忘れずにいる女ごころの切なさや哀しみをしずかに際立たせる調べとなって、声高ではない深い内心の痛みとしてうたわせている気がする。