君子の心両般あり。
一般は己を処するなり。
其己を処するは、貧賤の極り、艱難の甚だしきと云ども、雍々是に処り、一も天を怨み人を尤むる所なし。
一般は世を憂るなり。
(君子の心には二つの姿がある。
一つは自分の身をしかるべくすることである。
自分の身をしかるべくするというのは、たとえ貧賤が極まり、艱難がはなはだしくとも、ゆったりとおだやかな様子でそこにおり、すこしも天をうらんだり、人をとがめたりしないということである。
もう一つは、世の中を憂えることである。)
―吉田松陰 「講孟余話」―
今日の毎日新聞の夕刊に吉田松陰の形見の短刀がアメリカで発見されたという記事がその写真とともに載っていた。
写真には、柄(つか)があり、鞘(さや)があり、鍔(つば)があり、小柄(こづか)があり、刀身があり、それを包んでいた袋が写っていた。
室町時代の槍を改造したとみられるというその刀身は、31センチ。
ギラリと光って写真で見ても怖いほどだ。
武士というものは、こんなものを行住坐臥、常に身につけていたのか!
私の目はしばらくその写真に釘付けになってしまった。
刀が「武士の魂」と喧伝される意味が、この年になって初めてわかったような気がした。
竹光が嗤われるほんとうのわけが初めてわかったような気がした。
それはたしかに武士であることをやめた人のことだったのだ。
ともかくも、私は武士というものを誤解していたのかもしれない。
すくなくとも、江戸時代の武士を。
彼らにとって、脇差は、敵を切るためのものだったのか。
そうではあるまい。
それどころか、それは護身用ですらなかったはずだ。
抜けば必ず人を殺める、ずしりと重いものを常に身につけることは、とてつもない緊張感をそれを持つ者に強いたはずだ。
脇差は、むしろ自分を律するものとして、彼らの腰に差されていたことに今日初めて気がついた。
松の廊下で刃傷に及んだ浅野内匠頭は、たしかに乱心したのだ。
吉田松陰は、私の中では、どちらかといえば、あまり評価は高くなかった。
すこし、気合が入り過ぎてやしまいか、と思ったりしていたのだ。
ましてや、かの安倍のごときが「ショウイン先生」などと気軽に呼ぶにおいて、ますますイヤ気がさしていた。
けれども、これはただごとではない人なのかもしれないと思った。
そう思わせる刀だった。