王説(よろこ)びて曰く、
詩に
他人有心、予忖度之
《他人に心有りて、予(われ)これを忖(お)し度(はか)る》
と云えるは、夫子の謂なり。
われ乃(すなわ)ちこれを行ない、反(かえり)みてこれを求むれども、わが心に得ず。
夫子これを言いて、わが心に戚戚焉(おもいあたること)あり。
― 『孟子』―
昨日、久しぶりに吉田松陰の「講孟余話」の開いたので、今日はそのかたわらに「孟子」も置いて読み進めていたら、思いがけず今流行りの「忖度」という語が出て来たのでおもしろかった。
そして、その「忖度」は、今言われている「忖度」とまるで意味がちがっていた。
この言葉が出てくる「梁恵王篇」の七に出てくる話というのはこうである。
登場人物は孟子と斉の宣王。
どうやら、古代の中国においては、新しい鐘を鋳るとき、それを神聖なものにするために牛を殺してその血を鐘に注ぐ儀式があったらしい。
さて、斉にやって来た孟子が、宣王に向かって、王はかつてその犠牲とされる牛がおびえて殺されに行くのを目にして、その牛を羊に変えよと命じたという話をきいたが、そんなことがほんとにありましたか、と問うのである。
いかにも、そんなことがあった、と答える王に、孟子は、
「それこそあなたが王者に成れる証しだ」
と言うのである。
どういうことかと、思っている宣王に孟子は言うのである。
「でもね、百姓たちは王のことをけちんぼだと言っていますよ」
「なにをいうか」
と宣王。
「斉は小なりといえども、なんで牛一頭を惜しんだりしようか。
わしはただ、その牛がおどおどして罪もないのに死地に赴くのを見るに忍びず、羊にかえさせたのだ」
すると、孟子
「いやいや、百姓たちの言うことにも一理ありますよ。
だって、罪もなく殺されに行くのがかわいそうなら、牛も羊も変わらないではありませんか」
「なるほどそうか。
いったいわしは何を考えていたのやら。
百姓がわしをけちんぼだと言うのももっともなことだわい」
と王は苦笑する。
すると孟子は言うのである。
「無傷也(傷むことなかれ)=気になさいますな。
これこそ、「仁」に向かう道なのです。
なぜなら、あなたさまは牛の様子はご覧になられていたけれど、羊の方はご覧になられなかったのですから。
君子というものは、鳥でも獣でも、その生きているようすを見ていればとても殺されるのは見てられないし、その時のかなしげな鳴き声を聞いては、その肉を食べる気にはなれないものです。
だからこそ、君子は調理場の近くに居間は作らないものなのです」
言われた宣王は喜んで、冒頭に引用した部分が出てくる。
「詩経に《他人の心に思うことがあれば、私はそれを忖度する》という言葉があるが、まさに先生こそがそれですな。
先生の言葉をきくと、ひしひしと自分の心に思い当たる」
と言うんですな。
つまり、ここで使われている「忖度」とは、ある行為において本人が気づかずにいた内心の動機を洞察するという意味で使われている。
何やら現代の精神分析みたいな感じだけれど、孟子がそうするのは、その人が、仁を行なおうとするよき人=君子になろうと思わせるためだ。
宣王に対する孟子の話は、ここからいよいよ本題へと向かっていくのだが、こと「忖度」に関する限り、ここで孟子が使っている「忖度」はむしろ、王に向かってそのあるべき姿に導いていく手段として行なわれているものだ。
「忖度」はそのために使われている。
ここには、ただいま日本で言われている「忖度」の、目下の者が目上の者の「指示なき命令」を読み取って、それに「先回りして服従」してみせるなんて意味はまるでない。
孟子も、そして松陰も言うまでもなく理想主義者であるが、その立論の基本は「義」であって「利」ではない。
それにひきかえ、とは言いたくはないが、世も末、と思うことばかりの今日この頃でございます。