フョードル・パーヴロヴィッチは酔いしれているときに妻の訃報に接したが、いきなり往来に駆け出すと、嬉しさのあまり両手を宙に差し上げながら、『今こそ重荷がおりた」と叫んだという。
また一説には、いやなやつではあったが、小さな子供のように、おいおいと泣くので、見る目にも可哀そうなほどであった、ともいわれている。
それもこれも大いにありそうなことである。
つまり解放されたことを喜ぶと共に、同時に解放してくれた妻を思って泣いたのである。
人間というものは、たいていの場合に、たとえ悪人でさえも、われわれがおおよその見当をつけているよりもはるかに無邪気で単純なものである。
われわれ自身にしてもやはり同じことである。

 

― ドストエフスキー 「カラマゾフの兄弟」―

 

ヤギコが死んで、もう三週間以上がたった。

その間に、彼女を埋けた地面の傍らから、唐突にヒガンバナが茎を伸ばし、花をつけ、やがてしおれ、今日は、雨。

この間、私のなにかが変わったのだろうか。
よくわからない。

そういえば、街に出る日がふえた。
街に出て、本屋でいくら時間をつぶしてもいいし、てんぷら屋で酒を一合つけてもらっても平気だ。

私は「重荷」を下ろしたのだろうか。

死ぬ前のヤギコは乾いたタオルほどの重さもなかったんだが・・・・・・・。