ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて

 

― 茨木のり子 「自分の感受性くらい」―

 

金沢で三日続けてしこたま飲んだら、さすがにしばらくは飲む気がしなかった。
それでも、四日もたてば飲みたくなってくる。

飲みながら、昔のノートを開いたら、こんな言葉が書き写してあった。

四十年前、心は乾いていたのか。
これを叱咤の言葉と受け取って書き写したのだろう。
その「感受性」は、今より、もちろん、ずっと素直だ。

どんな詩だったか、詩集を開いて続きを読んでみる。
あまり感心はしない。

茨木のり子女史のこの手の詩は苦手なのだ。
なんだか、姉ちゃんに説教されてるみたいな気になる。

そういえば、今度の日曜、姉に会うことになっている。
ついでだから、全文書き写してみようか。

 

   自分の感受性くらい   茨木のり子

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのだ

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたし

初心が消えかかるのを
暮らしのせいにするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

やっぱり、なんだか、自分よりずっと出来のいい姉の説教みたいだなあ。
反論できない。

それに

 

酒が飲みたくなるのを
秋のせいにするな
もともとがのんべえだった

どこにも行きたがらないのを
年のせいにするな
ひまわり荘の青不動め

 

・・・なんて、私でも、いくらでも書けそうな気がするのもいけない。

まあ、みずからのこころの乾きには「水やり」よりも「酒やり」の方が効くと思っているようでは、いつまでたっても、私、愚弟のままなんだろうが。