つれづれなぐさむもの。

所在なさをなぐさめてくれるもの。

 

いと小さきちごの物語したるが、ゑ、などいふことしたる。

 

 とってもちっちゃな子どもがなにやらしゃべっていて、ふいに「にっこり笑い」などというのをするの。

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うつくしきもの。

かわいらしいもの。

 

二つばかりなるちごの、いそぎて這ひ来る道に、いと小さき塵などのありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指(および)にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。

 

 ニ歳ぐらいのちっちゃな子が、急いで這って来る途中で、とっても小さなゴミなんかがあるのを、目ざとく見つけて、なんともかわいらしい指でつまんで、大人なんかに見せているのは、ほんとうにかわいい。

 

― 「枕草子」 ―

 

昨日、宮崎の都城市にから里帰りしているという美穂が、息子のそらと君を連れて遊びに来た。

一歳半。
まあ、なんとかわいい!
まんまるなお顔。
くりくりの目。
黒目が目ん玉の八割は占めている。

「ご飯にしようか」
と言いながら、おかあさんがカバンの中から出したちいさなおにぎりを口元に持っていくと、口を開けて、そいつをぱくっとひとかじりする
小さく切ったトマトを持っていくと、また口を開けてパクリと食う。
白身の魚を持っていくと、口を閉じる。
「おさかな、おいしいよ」
と言っても、口を閉じたまま首を振る。
で、またおにぎりを持っていくと、口を開けてパクリとかじる。
で、
「おにぎ、おいし」
と言う。
ナマイキである。

わたしは子どもを育てたことがないから、聞く。
「子どもって、どうやって、ことば、覚えるの」
「基本的に、オウム返し」
美穂が答える。
そういうものであったか!
知らなかった。

ご飯のあと、あったかいから、三人で古墳公園に行く。
散り始めた桜の木の下には、シートの上に丸く座った人たちがたくさんいる。
子どもたちが芝生の上を駆けまわっている。

公園に着いたそらとはいきなり屈みこむ。
しゃがみこんで、地面に落ちている桜の花びらをひとひら指につまんでおかあさんに見せる。
「サ、ク、ラ。
きれいね」
お母さんが言う。
「さくら、キレイ」
そらとが言う。
なるほど、オウム返しだ。
「おいしい」だって「きれい」だって、こうやって覚えていくんだな。
そして、どんなことが「おいしい」ということであり、どんなことが「きれい」であるということかも、そうやって刻まれていくんだ。
すごいなあ。

そらとが歩いて行く。
四頭身。
あまりにもバランスの悪いその体を、自分の足で運んでみせることがたのしくてしょうがないんだというふうに歩いている。
なだらかな傾斜がついたちよっとした起伏を自分の足であやうく上ってみせてニコニコしている。
それをまた自分の足であやうく下りてみせて、またニコニコしている。

そんなにイバルナよ。
でも、彼の中には、絶対「やったあ!」感があるんだろうなあ。
だって、すごい高まりを自分の足でのぼって、そしておりたんだもの!

気が付いたら、彼らがやって来て、二時間以上がたっている。
でも、そんな気が全然しない。
不思議なものだ。

時間というものを、ぼくらはふつう「流れる」ものだと思っている。
でも、こどもにとって時間っていうのは、実は全然流れないものなんだな。
もちろん、彼らには「時間」という概念すらないんだろうが、それでも子どもを見ていると、彼らにとって、時間というのは、むしろ「積み重なる」ものなんじゃないかと思えてくる。
歩くことであれ、ことばを話すことであれ、彼らの過ごした時間は、確実に彼らの中に身体の記憶として積み重なっていく。

けれども、これは、はたして、子どもだけのことなのだろうか。
わたしたちにとってもまた、時間というものは、本来、記憶され、積み重なるものではなかったのだろうか。

たしかに、世間の時間は流れていく。
一日が始まり、一日が終わり、一年が始まり、一年が過ぎ、やがて世紀さえも変わっていく。

しかし、たとえば、家族。
その中で、はたして時間は流れるものだろうか。

もちろん、その中で子どもたちは大きくなり、親たちは老いていく。
家族のありようは時とともに変わっていく。
けれども、それは、けっして時間が流れ消費されたことを意味しないだろう。
家族とは、滔々と世間を流れる時間とはちがう固有の時間を持つ場であって、そこでは、時間は、むしろ積み重なり記憶されていくものとしてあるのではなかろうか。

災害や事故で家族を失くした人たちが異口同音に口にする

「あの時から時間は止まったままです」

ということばは、「流れ去る時間」ではなく、「記憶され、積み重なっていく時間」を失くした者の歎きなのだ。

もし、時間が流れ去り、二度と戻らぬだけのものならば、それはできるだけ有効に使わねばならない。
「効率的」とか「生産的」とか、あるいは「生産性」とかいったことばは、時間を流れ去るものとしてしかとらえていないときにつかわれることばだろう。
流れ去り、消え去るものならば、それは効率的に消費せねばならない。

だが、人の営みには効率では計れぬものがある。
いや、むしろ、企業活動を除けば、本来、人間のほとんどの営みは時間を効率的に使うことを拒絶していると言っていい。

子どもにごはんを食べさせるという、この世でもっとも非効率的な食事を見ながら、そんなことを思った。
そして、世の母親というものは、皆、この時間を記憶しているのだろうな、と思った。
心というより、むしろ身体の記憶として、無意識のうちにずっとずっと覚えているのだろうなと思った。

時は流れる。
けれども、一方で、時は積み重なる。

生きるということは、流れる時間を効率的に過ごすことを指すのではあるまい。
むしろ、世間に流れる時間を忘れ、固有の時間を積み重ねていくことを、人は人生と呼んで来たのではなったか。

 

そらと君、君のおかげで、とても楽しい時間だったよ。
そして、いろんなことを考えさせてもらったよ。
ありがと。