汝は晨朝(あした)に蒔き散らしたものをあつむ。
羊を集め、山羊を集め、
母の懐(ふところ)に稚児(うないご)を帰す。
― サッフォ 「夕づつの清光を歌ひて」 (上田敏 訳)―
午前中、雷まで交えて降っていた雨も昼過ぎにはあがり、空には雲ひとつなくなった青空が広がっていた。
午後4時45分、市役所から音楽が流れ、
「もうすぐ、5時です。子どもたちはおうちに帰りましょう。
地域の皆様も、見守りをお願いいたします」
と、いつもの放送が流れてくる。
子どもを持ったことない私は、
「なんだよ、5時って言ったって、まだまだ明るいじゃないか。
まったく、子どもいうのもたいへんだなあ」
なんて思っていたのだが、今はそんなふうには、とても思えない。
亡くなられた大桃珠生さん自身はもちろんのこと、夕星(ゆうづつ)が光りはじめても、「うないご」がそのふところに戻って来なかった母親の思いはどんなものだったろうかと、傷ましくてならぬ。
大桃さんが通っていた小学校の校長も、幼稚園の園長さんも、彼女のことを、
「おだやかでやさしい、がんばりやさんだった」
と語っておられた。
この「がんばりやさん」ということばを聞いたとき、私は、なんだか電気に打たれたみたいな気がした。
もちろん、私はこのことばを知らなかったわけではない。
けれども、胸を衝かれたのだ。
何にか。
たぶん、このことばが持っているやさしさにだ。
「がんばりやさん」――なんとやさしい、なんといいことばなんだろう。
これは、けっして子どもを「結果」によって評価する人のことばではない。
そうではなくて、子どもというものが、常に「過程」、あるいは「途上」にあるものであることを知っていて、その取り組みのありようを、ちゃんと見ていて、だから
「あなたは、がんばりやさん!」
って言ってあげられるのだと思う。
それが、どんなに子どもを勇気づけることか。
なぜなら、このことばは自分をちゃんと見てくれている人がいるってことだもの。
自分が、もっとすてきな人になれることを信じてくれているひとがいるってことだもの。
「がんばりやさん!」。
これは幼稚園の園長先生だから、言えるんだろうか。
小学校の先生だから言えるんだろうか。
大人になると、だれもその人のことを「がんばりやさん」なんて言ってくれない。
そう、大人は、結果がすべてだ、なんて言われる。
そうやって評価される。
でも、ひょっとしたら、それは、この世の「大人」と呼ばれる人たちの半分以上が、自分が「過程」だったり「途上」だったりすることをやめてしまっているからなのかもしれないじゃないかなあ。
自分自身が今の自分を、「結果としてある存在」と思い込んでいるからかもしれない。
孔子さんは言った。
仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯(すなわ)ち仁至る。
孔子のおっしゃっている事柄の根本義である「仁」についてはいろいろの説があるが、孔子さんが言っておられる「仁」とは、善きものを求めて、自分が善くあろうとする、その過程の中にこそ在る何ものかを指すことばではないだろうかと私は思っている。
「がんばりやさん!」
大人だって、みんなほんとうはだれかにそう言われたい。
そんなやさしい目で自分を見てくれる人がいてくれたらどんなにいいだろう。
ところで、わたしははたして、自分が、もっとすてきな人になれることを信じているのだろうか。
それにしても、なぜあんないたいけな「がんばりやさん」の命を奪うなんてことが起きえたのだろう。