その昔、ヤマトタケルのミコトは父なる帝に疎まれていることを感じながら、命ぜられるままに東国平定の旅に出た。まず伊勢に向かったミコトは、「父なる帝は私が死ねばいいと思っているのです」と、その地に住まう姨(おば)のヤマトヒメのミコトに涙ながら訴えた。これに対しヤマトヒメのミコトは何も言わず、スサノオのミコトが八岐(やまた)の大蛇(おろち)の体内から取り出したという大いなる剣を授け、更に「万一の時にはこの口を開きなさい」と言って小さな革の嚢(ふくろ)を授けた。
 相模の国に至り着いたミコトは、その地の国造(くにのみやつこ)に騙されて一面の草の茂る野へ導かれ、火を放たれた。押し寄せる炎の勢いにたじろいで足を一歩下がらせようとしたミコトは、「万一の時には」という姨の言葉を思い出した。言われた通り嚢の口を開き見ると、中には火打ち石が入っていた。
 ヤマトタケルのミコトは、野に放たれた火を退ける術として向火(むかいび)の法があることを思い出し、授けられた剣で辺りの草を薙ぎ払い、集めた草に火を点けた。ミコトが薙いだ草の火は、押し寄せる国造の火に立ち向かい、激しい白煙を立ち上らせて敵の炎を食い止めた。このことによって、ミコトの授けられた剣は「草薙の剣」の名を得ることになるが、それより重要な火打石にはいかなる名称もない。
 草を薙ぎ払うだけで、押し寄せる炎と白煙を押しとどめることが出来たのか?ヤマトヒメのミコトは黙って、押し寄せる敵を迎え撃つ術を教えたのだ。大太刀振るって敵をかわすよりも、迎え撃つことの大事を。

 

― 橋本 治 「草薙の剣」 ―

 

二週間前、毎日新聞で三浦雅士が「傑出した作品である」と書評を書いていた橋本治の「草薙の剣」は、昭和の始まりから現代に至るまでの日本の時代の空気とその中に生きた日本人を描いて、その評にたがわぬ傑作であった。
その道を通ったことは覚えてはいるが、振り返れば、それはうすぼんやりとした霧の中にある私たちの時代――父母たちの記憶を含めれば、自分たちが生き、その匂いを嗅いで過ごしてきたこの国の100年――がどのようなものであったかが、くっきりと目の前に見えてくる、そんな思いをしながら読んだ。

そして,読みながら思うのは
――どうして私たちはこんな場所に来てしまったのか?
ということではなく、
――そうやって、わたしたちはこんな場所にきてしまったのだな。
という、奇妙に納得させられるなにか索莫とした思いである。

さて、引用の部分はこの小説の末尾あたりに出てくる言葉である。

なぜ橋本治はこのことを書き、その小説になぜ「草薙の劔」と題を付けたのか。

ヤマトタケルのミコトを騙して、やがて火を放つべく草茂る野に導いた(あるいは導こうとする)《国造》とは誰のことであるのか。

私は、いま自分の嚢中(のうちゅう)に姨がくれたかもしれぬ火打石はなかったろうかと探り始めたところである。