大納言法印の召し使ひし乙鶴丸(おとづるまる)、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、ある時、出でて帰り来たるを、法印、
「いづくへ行きつるぞ」
と問ひしかば、
「やすら殿のがり、まかりて候」
と言ふ。
「そのやすら殿は、男か法師か」
とまた問はれて、袖かき合はせて
「いかが候らん。
頭(かしら)をば見候はず」
と答へ申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。

 

大納言法印が召し使っていた乙鶴丸という稚児が、やすら殿という者といい仲になって、いつもその男のところへ通っていたのだが、ある時、帰って来たのを法印が見とがめて、
「どこへ行っていたんだ」
と、問いつめたところ、
「やすら殿のところへ行ってまいりました」
という。
「その、やすら殿、というのは、普通の男か、それとも法師か」
とまた問われると、乙鶴丸は袖をかき合わせて、
「さあ、どうでしたでしょうか。
頭の方は見ませんでした」
と答え申した。
どうして、頭だけ見ないなどということがあろうか。

 

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先日、アメリカでは連邦最高裁判所が、同性婚を認めねばならん、という判決を出したそうであるが、キリスト教などという、やけに禁欲的な宗教とは無縁だった日本という国は、なにも、西鶴の「好色一代男」の世之介を出すまでもなく、昔から、ホモ・セクシャルに関しても寛容な国であった。
まあ、ここに出てくる乙鶴丸とやすら殿というのも、そういう仲なのであろう。

と、まあ、それはいいとして、大納言法印が
「そのやすら殿は、男か法師か」
と問う理由がなんだかよくわからない。
在俗の男ならよくて、法師ならいけないのだろうか。
それとも、その逆なのかしら。
いずれ、乙鶴丸は大納言法印の愛童でもあった、ということなのかしら。

とにかく、私には、この章段、何も言うべき言葉がないのですが。