赤舌日(しやくぜちにち)といふ事、陰陽道には沙汰なき事なり。
昔の人、これを忌まず。
このごろ、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日あること末とほらずと言ひて、その日言ひたりしこと、したりしこと、かなはず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事ならずといふ、愚かなり。
吉日を撰びてなしたるわざの、末とほらぬを数へて見んも、また等しかるべし。

そのゆゑは、無常変易(むじやうへんやく)の境、ありと見るものも存ぜず、始めあることも終りなし。
志は遂げず、望みは絶えず、人の心不定(ふぢやう)なり。
物皆幻化(げんげ)なり。
何事か暫く住(じゆう)する。
この理(ことわり)知らざるなり。
「吉日に悪をなすに、必ず凶なり。
悪日に善をおこなふに必ず吉なり」
といへり。
吉凶は人に寄りて日によらず。

 

赤舌日というのは、陰陽道には書いてないことである。
昔の人は、そんなものを忌んだりしなかった。
このごろ、誰が言い出して忌み始めたというのか、赤舌日にすることは中途に終わって最後まで行くことがない、と言って、その日言ったことや、したことはうまくゆかず、手に入れた物は失われ、計画したことは成就しないというのだが、馬鹿げたことだ。
吉日を選んでやったことのうち、うまく最後までいかなかった事の数を数えてみても、それはやはり同じに決まっている。

なぜかといえば、あらゆるものが常なく変わりゆくこの世において、私たちが、これはたしかに在るものなのだと見ているものも実は永遠の存在ではないのだし、世にある物事にはこれが始まりこれが終りなどということもないからだ。
思うことは中途に潰え、かと言って、何かを望む気持ちは消えない。人の心は変わるものなのだ。
物事はすべてゆめまぼろしなのだ。
いったいこの世で、しばらくでも同じであるものがどこにあるというのだ。
その道理を知らないから、赤舌日を忌んだりするのだ。
「吉日だからといって、悪事を為せば、それは必ず凶となる。
悪日に善をおこなえば、それは必ず吉になる」
というではないか。
吉凶はそれを行なう人によるのであって、日によるのではない。

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そうです。

思い立ったが吉日

です。