ある人、弓を射ることを習ふに、もろ矢をたばさみて的に向ふ。
師のいはく、
「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。
後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑(なほざり)の心あり。
毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」
といふ。
わずかに二つの矢、師の前にて一つをおろそかにせんと思はんや。
懈怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。
このいましめ、万事にわたるべし。

道を学する人、夕(ゆふべ)には朝(あした)あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期(ご)す。
いはんや、一刹那(いちせつな)のうちにおいて、懈怠の心ある事を知らんや。
何ぞ、ただ今の一念において、ただちにする事の甚だかたき。

 

ある人が弓を射ることを習っていたのだが、二本一対の矢を脇に抱えて的に向かった。
すると先生が言うことには
「習いはじめの人は、二本の矢を持ってはいけない。
後の矢を頼みにして、はじめの矢をいい加減に射てしまう気持ちになる。
一回ごとに、ただ当たる当たらないは気にせず、この一本の矢で決めてしまおうと思いなさい」
と言った。
たった二本の矢である。しかも先生の目の前で射るのである。どうして一本の矢をいい加減に射ようと思うことがあろうか。
しかし、ふときざしてしまう「なまけおこたる心」というものは、自分では気づかなくても、先生にはそれがわかるのだ。
そして、この戒めは、すべてのことに通じるだろう。

道を究めようと学ぶ人は、夕方になれば明日の朝があると思い、朝は夕方があるからと思って、そのときにもう一度心をこめてちゃんとやろうという心づもりをしている。(が、そのときすでに《今》をなまけおこたる気持ちが起きていることに気づいていないのだ。)
ましてや、一瞬一瞬のうちになまけおこたる気持ちが起きていることなど知ろうはずもない。
どうして、やろうと思い立った今の一瞬に、為すべきことをすぐに行なうことがこんなにも難しいのだろう。

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一本の矢しか持っていなかったときですら、わたくし、

何ぞ、ただ今の一念において、ただちにする事の甚だかたき。

でございました。

この一言、若い時も、今も、身に沁みますことひとかたならず、でございます。