死の知らせは、ふしぎな働きをする。それは悲しみではなく、むしろ、その人についての、忘れていた、わすかな些細な印象をあざやかに生きかえらせる。
― 長田弘 「詩の樹の下で」 ―
花を買いに行こうと思った。
私の部屋にはその人のための花がなかった。
すぐ近くにも花を売っている終夜営業のスーパーはあるのだが、すこし離れた駅前の店まで行こうと思った。
歩きたかった。
あるいは、歩かなければならないと思った、と言うべきだろうか。
今夜は、そんなふうにしなければならないと思ったのだ。
外は梅雨らしいしずかな雨が降っていた。
濡れた舗道が、街灯に鈍く光っていた。
黒く見える、ところどころにあるアスファルトのくぼみに出来た水溜りは、雨粒が落ちると、波紋が街灯を反射して光の輪を作っては消えた。
知らされた友人の母親の死が、私に悲しかったわけではない。
あるいは、もうすこし若かった頃そうだったように、肉親を亡くした友人の気持を思って切なくなったわけでもない。
たぶん、私も、人の死に「慣れて」きたのだ。
それでも、私たちの共通の友人がその死を知らせてくれた電話のあと、私は部屋の蠟燭に火をつけ、線香をあげて手を合わせた。
そうして、まだ線香の香がただよう部屋の椅子に腰を下ろして、今夜は飲もうかと、ひさしぶりの酒をコップについでいると、不意に、今から40年以上も昔、私たちがまだ学生だった頃の、友人の家で何度も会ったその人の表情と声が鮮やかによみがえって来た。
そのとき彼女は40代の半ばになっていたのかどうか。
その若々しい声と表情を思い出したとき、
――ああ、あの人のためのお花を買って来なければ。
そう思った。
自分の母が亡くなったあと、幼い子供連れた若いお母さんを見ると、母もまた自分を産んだ時あのように若かったのだ、と思ってなんだか不思議な気がした。
そして、私を身ごもり、私を生んだ、そのときの母の中にあった「若い女の力」を思ってなぜだかせつなくなったりした。
友人のおかあさんの若い頃の顔と声を思い出したせいだろうか、花を生け、一緒に買い足してきた酒を飲みながら、今夜はそんなことも思い出した。
それが、亡くなられた友人のおかあさんの冥福を祈ることになるかどうかはわからない。
けれども、 今夜は、そのおかあさんだけでなく、わたしたちを生み、育てた、母親たち一人一人の中にあった、その「若い力」のことが、なぜだかとてもいとおしく思われてくる。