「箱のくりかたに緒を付くる事、いづかたに付け侍るべきぞ」
と、ある有職の人に尋ね申し侍りしかば、
「軸に付け、表紙に付くる事、両説なれば、いづれも難なし。
文(ふみ)の箱は、多くは右に付く。
手箱には軸に付くるも常の事なり」とおほせられき。

 

「箱のふたを閉めるための緒を通すために箱の身の方に付いている環に、緒を付ける時、左右どちらの環に付けるのが正しいのでしょうか」
と、故事しきたりに詳しいお方に尋ね申しましたところ、
「箱の左である《軸》の方に付ける、あるいは右側である《表紙》の方に付けると、両方の説がありますから、どちらに付けてもまちがいではありません。
とはいえ、手紙を入れる箱の場合は多くは右に付けますな。
また、手回り品を入れる手箱の場合は左の方に緒を付けるのが尋常のことです」
とおっしゃられました。

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その行動様式に機能的合理性があるとき、その伝承が ゆがむことは少ないだろう。
建築や工芸、あるいは楽器の演奏や武芸といった技術・技能は、誰の目にも明らかな結果をもたらす故、改善され改良され、その最善のものが伝承されていくだろう。
徒然草の第五十一段に書かれた、大井の土民に造らせてうまく廻らなかった亀山殿の水車が、宇治の里人に造らせると
思ふやうにめぐり、水を汲み入るる事めでたかりけり
という結果になったのは、急流の河畔にある宇治において水車を造る技術が伝承されていたからである。

おなじ伝承といっても、朝廷の儀礼等におけ、式次第やそこで身に付けるべき服装などを規定する「有職故実」は、結果から見たその行動・行為の合理性を検証することができないものだ。
ゆえにその正当性の根拠となるものは、
「古来そうである」
もしくは
「古くはこうであった」
という知識になってくるのだろう。

私たちは、兼好がなぜこんな有職故実にやたらにこだわるのか、不思議に思ったりする。
けれども、そんな私たちも、冠婚葬祭の場においては、その着るべき服装に留意するだろうし、その儀礼の場においては、式場の職員の指示に従って行動するものだ。

「有職故実」がこんなにまで重んじられる朝廷とは、実を言えば、毎日毎日、結婚式やら葬式やらが続く場だったのだと思うべきなのかもしれない。