高名の木のぼりといひしをのこ、人をおきてて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりになりて、
「あやまちすな。
心して降りよ」
と言葉をかけ侍りしを、
「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。
如何にかくいふぞ」
と申し侍りしかば、
「その事に候。
目くるめき、枝あやふきほどは、おのれが恐れ侍れば申さず。
あやまちは、安き所になりて、必ず仕る事に候」
といふ。

あやしき下﨟なれども、聖人のいましめにかなへり。
鞠(まり)も、かたき所を蹴出だしてのち、やすく思へば必ず落つと侍るやらん。

 

木登り名人だと評判の男が、人を指図して高い木に登らせて枝を切らせていたが、たいそう危なそうに見えている間は何も言わないで、降りる時に、ほんの軒ぐらいの高さになってから、
「失敗するんじゃないぞ。
気を付けて降りろよ」
と言葉を掛けましたので、
「これくらいになったら、飛び降りてでも降りられるだろう。
どうしてそんなことをいうのだ」
と私が申しましたところ、
「大事なのは、そのことでございます。
目もくらむような高さの、枝も折れそうなほどのところでは、本人が恐れて気をつけますので声は掛けません。
まちがいというものは、簡単に思えるところで、必ず起こしてしまうものでございます」
と言う。

いやしい下賤の者ではあるけれども、その言葉は、聖人の戒めとぴったりと符合している。
蹴鞠でも、むずかしいところを蹴り出したあと、やれ安心だと思ったなら必ず鞠が地面に落ちてしまうものだと、その道の戒めにございますとか。

 

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この章段は、中学校の教科書にも、高校の教科書にも、載っておりました。
中学生の時、これを初めて読まされた時は

人をおきてて、高き木にのぼせて、・・・言ふ事もなくて、・・・軒たけばかりになりて、

と、「て、て、て」といつまでも続く文章がなんとも奇妙な感じがしたものです。
しかし、
人をおきてて
という部分は、「てて」という響きが、なんだか言葉がここでつまづいているみたいな感じで、実はなかなかに気に入っておりました。

「おきてて」は漢字では「掟てて」と書きます。
「掟」なんですな。
なんでも、「右て」「左て」のように方向を示す「て」を、前もって決めて「置く」のが「おきて」らしい。
自分たちがこれからどこへ向かうか、どのようにふるまうべきかを前もって決めておく。

私も、毎日この通信を書くと《おきてて》はいたんですが・・・。