双六(すごろく)の上手といひし人に、その手立(てだて)を問ひ侍りしかば、
「勝たんと打つべからず。
負けじと打つべきなり。
いづれの手かとく負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目(ひとめ)なりともおそく負くべき手につくべし」
といふ。

道を知れる教へ、身を治め、国を保たん道も、またしかなり

 

双六が上手だと評判の人に、その打ち方を尋ねましたところ、
「勝とうと思って打ってはいけない。
負けないようにしようと思って打つべきだ。
どの手が一番早く負けてしまうだろうかと考えて、その手は使わないで、たとえ一目だけでも遅く負けることになる手を撰ぶのがよい」
と言いました。

これはその道を知った者の教えと言うべきで、身を修め、国を保つ道も、またこれと同じことなのだ。

 

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「高名の木のぼり」に続いて、今回も兼好がじかに聞いた「双六の上手」の言葉です。
兼好は、こういう人の話に感心する人です。

勝たんと打つべからず。
負けじと打つべきなり。

たぶん、あらゆる戦いの秘訣はそうなのでしょう。

そういえば、昔、美空ひばりが、この双六上手の言葉に似たことを歌っておりました。

勝つと思うな
思えば負けよ

あれは柔道の歌でしたが、武道の上手であられる狼騎氏なら、まちがいなく、こう言うはずです。
「勝ったとか負けたとか、それは《喧嘩》とか《競技》の世界であって、武道ではない。
まあ、わしがやっとる太極拳だけではなく、そもそも拳法というのは護身の術であって人に勝つためのものではないし、拳法にかぎらず、武道、武術というものは、そもそも、勝つためにではなく負けないため身につけるものなんだから」
と。

ところで、昨日国会前に集まった多くの人たちは、無意識のうちに、勝つために集まったんじゃなく、負けないために集まったのではないでしょうか。

たぶん、歴史において勝利したすべてのレジスタンス運動は、
「勝つこと」
ではなく、
「負けないこと」
に力点を置いたものだったのだと思います。

そんな歴史のページが日本でも今つづられているような気がします。