明日は遠国(おんごく)へおもむくべしと聞かん人に、心しづかになすべからんわざをば、人いひかけてんや。
にはかの大事をも営み、切(せち)に嘆く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ喜びをも問はず。
問はずとて、などやと恨むる人もなし。
されば、年もやうやうたけ、病にもまつはれ、いはんや世をものがれたらん人、またこれに同じかるべし。

人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。
世俗の黙(もだ)しがたきに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)もなく、一生は雑事の小節(せうせつ)にさへられて、空しく暮れなん。
日暮れて塗(みち)遠し。
わが生(しゃう)すでに蹉跎(さだ)たり。
諸縁を放下すべき時なり。
信をも守らじ。
礼儀をも思はじ。
この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ。
うつつなし、情けなしとも思へ。
毀(そし)るとも苦しまじ。
誉むとも聞き入れじ。

 

明日は遠くの国に旅立つことになっていると聞いている人に、心しずかにふだんやらねばならないようなことを、人は言いかけたりするものだろうか。
急に起こった大事なことを処理しなければならかったり、心に深く嘆くことのある人は、ほかの事は耳に入らないし、他人の愁いや喜びの見舞いをすることもしない。
そのような人が見舞いに来ない、挨拶に来ないからと言って、どうしてあいつは挨拶に来ないのだと恨みに思う人もいない。
だとすれば、年もだんだん盛りを過ぎて、病気にもとりつかれ、ましてや遁世しているような人もまたこれと同じものだろう。(だから、あいさつなんかに行かなくていいのだ。)

人が行なう儀式の中の、どれをとってみても、それをしないでは済ますことができない、なんてものがあるだろうか。
世俗における無視できない事柄に引きずられて、これを必ずやらなければならないものだと考えていたなら、やりたいことが多くなり、身は苦しく、心はやすらう暇もなく、、一生はそのようなこまごました雑事に邪魔されて、むなしく終わってしまうだろう。
日暮れて塗(みち)遠し。
わが生(しゃう)すでに蹉跎(さだ)たり。
という言葉があるではないか。
日は暮れたのに、私の行く道は遠い。
私の人生はすべてつまづきばかりであった。
という意味だ。
いまこそ、心にかかっているすべてのものを捨て去るときだ。
人に交わした約束も守らないでおこう。
礼儀などということも考えずにおこう。
こんな気持ちのわからない人が、私のことを気ちがいだと言うなら言えばいい。
あいつは正気ではない、人でなしだと思うなら思えばいい。
けなされたって苦にはしない。
ほめられたって、そんなことは耳に入れない。

 

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兼好さん、激しています。
齢、初老に達し、体の具合もなにやら下り坂の中、わずらわしい世間の付き合いに取り紛れ、本来為すべきことを何一つしていない自分にほとほと愛想が尽きている。
うんざりしている。
最後の6文なんか、もう、なんだか破れかぶれの物言いです。
ぜんぜん悟り澄ましてなんかいない。
なにやら少年が日記に書きつけた自分への絶交状みたいです。

しかし、考えてみれば、出家遁世などというものは、一種の激情がなければできないものなのかもしれない。
「エイ、ヤッ!」の気合の産物かもしれない。
なにしろ、世俗の縁を「絶ち」「切る」のですからね。
「エイ、ヤッ!」に決まっている。

 

ところで、真君も、いよいよ今度の土曜日に、遠国に旅立ちます。
なにかと忙しかろうに、今日も私の部屋で勉強して帰っていきました。
エライものです。

ちなみにカナダにはダンベルは持っていかないそうです。