あらためても益(やく)なき事は、あらためぬをよしとするなり。

 

改めても益のないことは、あらためないのをよしとするだ。

 

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たった一行。
ここでの兼好の口調は強い。
だが、兼好が何に触発されて、この言葉を書いたのかはわからない。
彼はただ一般論としこう断言するだけだ。

あらためても益なき事は、あらためぬをよしとするなり。

たしかに、改めても益がないことは改めない方がよいに決まっている。
そんなことは、あらためて章を立てて言うほどのことでもない。
誰にだってわかる。
それをわざわざ言うのはなぜなのか。

ここには、第九十八段に引用されていた「一言芳談抄」からの言葉、

 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり。

に似ているように見えながら、微妙に違うなにかがあるように思える。
それは「一言芳談」のそれが、そもそも個人的事柄に対する心構えに関する発言であるのに対し、この言葉が、公の事柄に関する発言に見えるからである。
兼好から見て「益なきこと」に見える≪改革≫を誰かが主張していたのだろう。
それがなんであるかを兼好は書かない。
ただ
あらためても益なき事は、あらためぬをよしとするなり。
というばかりである。

ところで、個人的な事柄に関する心構えにしたところで、誰もが「一言芳談」の言葉のように考えるわけではない。
その可否はともかく、現代では、むしろ
「やらずに後悔するくらいなら、やって後悔する方がいい!」
という意見の方が優勢らしく思える。
まして公のことともなれば、その人が何を「益」と考えるかによって、その事を「あらためる」か「あらためぬ」か意見は分かれるに決まっている。
兼好から見て「益なきこと」に思えることも、それを「益あること」と思う者がいて、今ある何かを「あらためる」ことを主張するのである。
そして、たぶんそれは「あらため」られたのであろう。
そのことに、兼好は憮然としている。
憮然として、兼好は紙に書き付ける。

あらためても益なき事は、あらためぬをよしとするなり。

しかし、これは何も語ったことにはならない。

この言葉の妥当性は、それを「あらためること」の何が「益」であり、何がその「害」であるかについて、また、それを「あらためぬこと」の何が「害」であり、何が「益」であるかについて語らなければ、実は何も見えてこない。

兼好は、当然、それを「あらためる」「あらためない」の決定に関わる立場でもなければ、意見を徴される立場にもなかったはずだ。
ただ、結果だけを聞かされて、
「なんというバカなことを!」
と思ったのだ。
で、書いてしまったのだ。

あらためても益なき事は、あらためぬをよしとするなり。

と。

改めても益のないことは改めない方がいいに決まっている。
けれど、それがほんとうに「益」のないことだったか、それはわからない。