人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただしづかにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく異なる相を語りつげ、いひし言葉も、ふるまひも、おのれが好む方にほめなすこそ、その人の日来(ひごろ)の本意にもあらずやと覚ゆれ。

この大事は、権化(ごんげ)の人も定むべからず。
博学の人もはかるべからず。
おのれ違(たが)ふ所なくは、人の見聞くによるべからず。

 

ある人の臨終のときの様子がすばらしかった事などを、人が語るのを聞いていると、ただ
「あの人は、しづかに死を受け入れているようすで取り乱す事もなかったですよ」
とだけ言ったならば、心ひかれる思いがするだろうに、愚かな人は、極楽往生を告げる、不思議でいつもとは違ったしるしがあったなどと語り、その人が臨終の際に言った言葉も、ふるまいも、自分が好む方にほめそやしたりして、そのようなことは亡くなった人の日ごろの思いとはちがうのではないかと思われてくる。

この臨終という人の大事のよしあしは、神や仏の化身であっても決めることはできない。
博学の人も判定することはできない。
亡くなる本人がふだんと変わることないようすであればそれでよいのであって、ほかの人の見たり聞いたりしたことによるのではない。

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臨終の際、

おのれ違(たが)ふ所なくは

というのは、
「その本人さえ取り乱すことなければそれでいいのであって」
と注釈に書いてあった.。

研究者の書かれたことなのだから、正しくはそういうことになるのかもしれないけれど、
「死に際に、周りの者たちが大げさな瑞徴やら奇跡があったとさえ言い立てさえしなければ」
あとは
「ふだんのその人らしくあればそれでいいのだ」
という意味に訳しておけばいいのではないかと思ったりした。

たとえ、自分の死に取り乱したにしても、それもまたその人のふだんの「おのれ」と違ってはいないのであって、それはそれで私たちにいろいろの事を告げ知らせてくれるのではないかしら。
たとえば、幼い子を残して死んでいく母親が、その事を嘆き悲しむばかりであったにしても、それは、まちがいなく人の死の実相に違いないだろう。

・・・・とここまで書いて、二三日放置して置いたら、今朝の朝日新聞の鷲田清一のコラム「折々のことば」に、吉野秀雄のこんな歌が載せられていた。

 

生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最後の息に耐えにき

 

結核を病む夫と子どもを残して死んでゆく妻を歌った歌である。
これについて鷲田氏はこんなコメントを書いている。

ひとはよく死の恐怖を言うが、ほんとうは死ぬほうだって、自分が死んだらあいつはどうなるか、私の代わりにあいつをかまってくれる人がいるのかと、遺される者を案じて胸が張り裂けそうになっている。遺される者を愛しむ気持ち、そのほうが自身の死より切迫している。

そうなのだと思う。
そして、ここに書かれている死に向かう人の気持ちは、きわめて一般的なものであって、それはいかなる瑞徴にもまさる人というものの「奇蹟」の一つなのだと思ったりする。

また、この吉野秀雄の妻の死に際も、まちがいなく「おのれ違ふ所な」き臨終のありようなのであろうと思う。