栂尾(とがのを)の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふをのこ
「あし、あし」
と言ひければ、上人立ち止まりて、
「あなたふとや。
宿執(しゆくしふ)開発の人かな。
阿字阿字(あじあじ)と唱ふるぞや。
如何なる人の御馬ぞ。
あまりにたふとく覚ゆるは」
と尋ね給ひければ、
「府生殿(ふしやうどの)の御馬に候」
と答へけり。
こはめでたき事かな。
阿字本不生(あじほんふしやう)にこそあなれ。
うれしき結縁(けちえん)をもしつるかな」
とて、感涙をのごはれけるとぞ。

 

栂尾(とがのを)の明恵上人が道を通り過ぎなされるときに、河で馬洗っていた男が、馬の脚を上げさせよとして
「あし、あし」
と言ったところ、上人は立ち止まって、
「ああ、尊いことだ。
あなたは前世の善根が花開いた人ですなあ。
知らず知らずに阿字阿字(あじあじ)と唱えておりますぞ。
ところで、それはどのような方の御馬ですかな。
たいそう尊く見えますが」
と尋ねなされたので、
「府生殿(ふしやうどの)の御馬でございます」
と馬を洗っていた男は答えた。
「これはなんとすばらしいことでしょう。
阿字は仏教の不生不滅の真理を表しておることを、ちゃんと示しておりますぞ。
ああ、ここであなたにあえてほんとうにうれしい」
と言って、感涙をぬぐったということです。

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誰かの顔を〈しろうるり〉に似ていると言った盛親僧都(第六十段)とか、馬から落ちて、落とした相手を面罵した後、自分が恥ずかしくなって逃げかえった証空上人(第百六段)とか、兼好は、こういうお坊さんが好きなんですな。(私も好きですが)

これまで出て来たお坊さんは、「徒然草」に出てくる以外の事績は知らないのだが、この京都・栂尾の高山寺の明恵上人は知っている。
日本史の教科書に華厳宗再興の人で、「摧邪輪」を書いて法然を批判した人だと習うし、資料集には彼の肖像画まで出ている。
根本あたりで二股に分かれた松に縄を張って、そこで座禅をしておられる絵です。
ほっそりとしておられて、ひげが濃い。

 

でもって、私の本棚にはこんな本もある。

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以前読んだとき、めちゃくちゃおもしろかった記憶があったので、今日読み返していたんですが、やっぱりおもしろかった。

その生きた時代は、1173 – 1232 と言うから、平安の末から鎌倉の初め。
兼好の百年ぐらい前の人である。

弟子が書いた伝記には、何を書いていいんだかわからないほど、なんだか人の世の常識をはるかに超えたエピソードがたくさんあって、ほんとうに、ただただ、すごいお坊さんだとしか言いようがない。

本には、歌もたくさん載っている。
時代が一緒だから、西行も彼の寺に時折立ち寄ったりしたらしい。
西行と言えば桜の歌だけれど、明恵さんのは月の歌ばっかりがならんでいる。
お世辞にもうまい歌ではないが、別にうまい歌を作ろうなんて思ってはいなかったのだろう。
中にはこんな歌があって、思わず笑ってしまう。

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月

明るいなあ、明るいなあ、あか・あか・あか・あか・明るいなあ、
明るい、明るい、明るいなあ、お月さん

てな歌である。

ただものではない。

ところで、弟子の書いた伝記の臨終のところには、

面貌、歓喜の粧ひ忽ちに顕れ、微咲を含み、安然として寂滅し給ふ。 春秋六十歳也。

とあるのはいいのだけれど、死ぬ前になんだかいい香りがしてみんながそれを嗅いだと書いてありました。
兼好さん、これぐらいは許すか。