能につかんとする人、
「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。
うちうちよく習ひ得てさし出でたらんこそ、いと心にくからめ」
と、常に言ふめれど、かくいふ人、一芸も習ひ得ることなし。
いまだ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀(そし)り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、みだりにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、終(つひ)に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双(ならび)なき名を得ることなり。
天下の物の上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下(むげ)の瑕瑾(かきん)もありき。
されども、その人、道のおきて正しく、これを重くして放埓(ほうらつ)せざれば、世のはかせにて、万人の師となる事、諸道かはるべからず。
芸事を身につけようとする人の中には、
「上手にならないうちは、なまじっか人に知られないようにしよう。
隠れてよく習って上手になってから人前に出るほうがカッコイイだろう」
と、常に言っているような人がいるようだけれど、こんなことを言っているような人は、どんな芸だって身につくことはない。
まだ全然未熟なうちから、上手な人の中に交って、ケチを付けられたり笑われたりしても恥ずかしがらず、平気な顔で過ごしながら、それを好んで精を出す人は、天性にその素質はなくとも、行きなやむこともなく、稽古をいい加減にしないで、年を送るので、素質があっても芸に打ち込むことをしない人よりは、しまいには上手の位に至り、人徳もそなわり、人からも認められて、二人といない名人という評判を得るのだ。
天下一の何々の上手という人でも、始めは、へたくそだというの噂も立ち、とんでもない欠点もあったのだ。
けれども、その人は、その芸道に定められたいましめを正しく守り、これを重んじて自分勝手なやり方をしなかったので、その道の権威として、多くの人の師となったのであって、その事は、どんな芸道でも変わるはずはないのだ。
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日本の習い事は練習と言わず「稽古」という。
型を習い、それがあたかも自分の天性の動きであるかに体にしみつくまで、それを繰り返す。
そのことのすごさを知っている人は、もちろん私ではなく、前野氏であって、だから、私はあまりエラそうなことは書けない。
「ならふ」と言えば、道元さんは「正法眼蔵」のはじめにおいてこんなことを書いている。
仏道をならふというは、自己をならふ也。自己をならふといふは自己をわするゝなり。
なにもこれは仏道に限ったことではないのであろう。
物を学ぶということは要は「自己をわするる」事なのだ。
物を学ぶとき、要らざる自意識を持つのは禁物なのである。
いまだかつて、学ぶ身でありながら、「稽古」をきらい、なまじいに「個性」とやらを発揮しようとする者にロクな者があったためしがない。
中学時代、私の技術の通信簿が、いつも、2、もしくは、ときとしては、1(これはなかなか取れるものではない!)であった理由が、よーくわかる。
それは手先の器用さ云々ではなく、その心構えが、大きくまちがっていることを先生は見逃さなかったのである。