英語の自動詞には受動態はないが、日本語には、「死ぬ」という自動詞にも「死なれる」という受動態がある。
― 鷲田清一 「折々のことば」 ―
9月、恵理さんの妹の美穂ちゃんから電話があって、昔、かの家にもらわれていった二匹の猫が相次いで亡くなったという知らせをもらった。
年齢は一つちがい。
15歳と16歳。
一匹は、ヤギコと一緒に生れた仔であり、もう一匹はヤギコのお兄ちゃんであるイカちゃんと同じときに生れた仔である。
どちらも長く持病を抱えての死だったという。
10月、勝田氏から電話があって、彼の家で飼われていた猫が亡くなったと告げられた。
ヤギコと同じ年に彼の家にやってきた猫だった。
どちらの電話も、聞きながらすこし涙ぐんだ。
「死んだ」というより「死なれた」という思いが伝わってきたからだ。
愛されていたのだ。
前世というものを科学は否定するが、私たちに名を付けられかわいがられる猫や犬は、たぶん私たちとなにかしらの縁を前世で結んできたのだと思いたくなる。
なまじいに言葉を持たぬゆえ、ただ、だまってそばにいてくれる彼らは、ときとして家族以上の存在だったりする。
先週の毎日新聞に、小池光の最新の歌集が紹介されていた。
中にこんな歌があるという。
おまへのこと愛したひとは死んでしまったよ猫に言ひかく抱き上げながら
愛妻を亡くした時の歌だという。
おまへのこと愛したひとは死んでしまったよ
そう猫に声をかけている。
この「おまへ」とはもちろん抱きあげた猫のことである。
けれども、一方でこの「おまへ」が自分自身のことでもあることに、もちろん歌人は気づいている。
だからこそ、彼は猫に言いかけるのだ。
彼と猫は大事な人を失くしてしまった仲間だから。
抱き上げられた猫は、にゃあ、とでも答えたろうか。
人でも猫でも「死なれる」のはつらい。
ところで、自分には、仮にある人が亡くなったとき、その死を「死なれた」と思ってしまうような人は、はたして何人いるのだろう。
もちろん、「死なれた」という思いは、その人に死なれてはじめてわかるものなのだが。