朗読のさいにうまく読みたいと思うのなら、想像をたくましくして言葉を読み上げるとよい。

 

 

― ウィトゲンシュタイン 「反哲学的断章」〈丘澤静也 訳)―

 

昨日の日曜日、中学生たちは校外模試。
高校生たちが朝から勉強に来ていた。

高校一年のジュリちゃん、今回は漢詩が試験範囲らしい。
ノートに白文を写してまじめにお勉強をしているが、ちっともわかっていないらしい。

「あなた、声も出さずに詩のよさなんてわからないよ。
読んでごらんなさい」
そう言って読ませてみると、案の定、すらすら読めない。
すらすら読めないで、漢詩に、理解もなにもあったものではない。

 

読み進めていく中に、杜甫の「岳陽楼に登る」もあった。

 

  登岳陽楼     杜甫

 

昔聞洞庭水            昔聞く 洞庭(どうてい)の水
今上岳陽楼            今上る 岳陽楼(がくようろう)
呉楚東南坼            呉楚(ごそ) 東南に坼(さ)け
乾坤日夜浮            乾坤(けんこん) 日夜浮かぶ
親朋無一字            親朋(しんぽう) 一字無く
老病有孤舟            老病 孤舟(こしゅう)有り
戎馬関山北            戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北
憑軒涕泗流            軒(けん)に憑(よ)れば涕泗(ていし)流る 

 

訳も付けておく。

 

昔から洞庭湖の壮大さは聞いていたが、
今私はそのほとりの岳陽楼に上って、その湖面を眺めている

この湖によって呉の国と楚の国は、東と南に引き裂かれ
その湖面には天と地のあらゆるものが昼夜分かたず影を映してうつろってゆく

今、私には親戚や友人からの一字の便りさえなく
この老いた病む身に、たった一艘の小舟があるだけだ

戦乱は、ここから関所や山を隔てた北にある故郷でなおも続いている
こうやって今この楼上の欄干に寄りかかっていると私は涙が流れるばかりだ

 

 

私はジュリに言った。

「あなた、これを、自分がヨーロッパに逃れてきたシリアの難民だと思って読んでごらんなさい。
そうすると、これがどんなにすごい詩であるかがあなたにもわかるよ」

何度も何度も繰り返し読んでいたジュリは

「なんだか泣きそうになってきた」

という。
詩の力とはそういうものだ。

今から1300年ちかくも昔の歌が、今もリアリティを持ってしまうのは、もちろん杜甫という詩人のすごさではあるけれど、1300年、何一つ変らぬ人間の愚劣さの証明でもあろう。

 

昔からパリの華やかさについては聞いていたが
今私はエッフェル塔に上ってそれを見ているのだ・・・・

 

シリアからの難民の中に、こう思って塔に上った人もきっといるにちがいない。