大臣の大饗(だいきやう)は、さるべき所を申しうけておこなふ、常の事なり。
宇治左大臣殿は、東三条殿にておこなはる。
内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所に行幸ありけり。
させる事の寄せなけれども、女院の御所などを借り申す、故実なりとぞ。

 

大臣に任ぜられた人がその披露のために催す大饗(だいきやう)は、それにふさわしい所を願い出て借りうけておこなうのが、常の事である。
宇治の左大臣藤原頼長殿は、東三条殿にてそれを行なわれました。
天皇のお住まいであった内裏であったその場所を、頼長殿が願い出たので、天皇は他所に行幸なされたのです。
これといった縁故はなくても、女院の御所などを借り申すのは、昔からの慣習だそうです。

 

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兼好が生れたのは、1283年(弘安6年)前後らしいと、テキストの解説に書かれている。
《弘安の役》という二度めの元寇があったのが1281年であるから、彼の六十八年の生涯は、鎌倉幕府滅亡(1333年)をはさむ南北朝の動乱期に重なることになる。
しかしながら、彼の残した言葉には、その頃の政治状況や社会情勢について語っているものは何もない。
それに対して傍観、部外の者であるというよりは、あたかもそのようなことがありもしなかったかのようである。
かの《建武の新政》がもたらした全国の土地所有の混乱が、彼が持っていた所領に関してどのような影響を与えたのか、あるいは与えなかったのかも、今の私は知らないが、彼ほどの批評精神を持ちながら、ここまで徹底して政治に関して何も語らぬのは不思議と言えば不思議な態度である。
けれども、それこそが彼の批評精神のあらわれである、という見方もできよう。

ちなみに後醍醐天皇はその新政にあたって、
「朕の新儀は未来の先例たるべし」
と言って、もろもろの制度の一新を断行したと伝えられている。

「一新」と言い、「維新」と言い、「改革」と言い、「改新」という。
新しいものをよしとする風が、いつのまにやら日本にははびこっているようだが、当時「新儀の非法」、「新儀の商人」というのは伝統・先例を破るふとどきな所業を意味した。

兼好が、有職故実について数多く語る事もまた、その流れの中にあるのかもしれない。