筆を執(と)れば物書かれ、楽器を取れば音(ね)をたてんと思ふ。
盃を取れば酒を思ひ、賽(さい)を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。
心は必ず事に触れて来たる。
かりにも不善の戯れをなすべからず。

あからさまに聖教(しやうげう)の一句を見れば、何となく前後の文(ふみ)も見ゆ。
卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。
かりに今、この文をひろげざらましかば、この事を知らんや。
これすなはち触るる所の益(やく)なり。
心さらに起こらずとも、仏前にありて数珠(ずず)を取り経を取らば、怠るうちにも、善業(ぜんごう)おのずから修せられ、散乱の心ながらも、縄床(じやうしやう)に座せば、覚えずして禅定(ぜんじやう)成るべし。

事・理もとより二つならず。
外相(げさう)もし背かざれば、内証必ず熟す。
強ひて不信を言ふべからず。
仰ぎてこれを尊むべし。

 

筆を執ればなにかを書きたくなり、楽器を手にすれば音を出してみたくなる。
盃を取れば酒を思い、サイコロを握ればバクチを打ちたいと思う。
そんなふうに、何かをしたい、と思う心は、必ず何か事物に触れてやって来るものだ。
だから、かりにも不善の戯れをしてはならない。

たまたま何かの折に仏典の一句を見たりすれば、何となく前後の文も目に入る。
それによって、にわかに長年の誤りをを改める事もある。
もし今、この経文を広げなければ、その事を知ることがあったろうか。
これは、つまり、善いものに触れた益である。
信心の心がまったく起こらなくても、仏前にありて数珠を取り経を取ったならば、いいかげんにやっていたとしても、後世に善い報いのある行いがおのずから修められるし、とっちらかった心のままであっても、座禅をする縄床に座れば、知らず知らずのうちに悟りが訪れることもあろう。

外にあらわれたものとその内側にある真理は元来一つのものだ。
われわれがそれに向かう姿勢が正しければ、内面に生ずる真理も必ず熟してくる。
だから、そのような姿勢にある人に対し、それを行なおうとする内面がまだ全然伴っていないではないか、などと批判してはいけない。
むしろ、その外側の姿勢がそのようにになったことを、すばらしいことだ、と仰ぎて尊ぶべきなのだ。

 

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先週の週末、金沢では忘年会が行なわれたそうでございます。

勝田氏によれば

昨晩の狼騎氏は禁?を犯してグビグビのんでおりました。
司氏には『飲まんかいや!』と再三促し、三氏大笑いの年の瀬放談でした。

とのことでございました。

狼騎宗匠の卒爾にして多年の非を改めんとした、かの《わたくし酒をやめました》宣言もまた

心は必ず事に触れて来たる

という、この徒然草の真理から逃れることができなかったようでございますな。

わたくし、

強ひて不信を言ふべからず。
仰ぎてこれを尊むべし。

と、思っておりましたものを!

まずは、取るべき盃を身辺から遠ざけてはじめて《禁酒》も成就するというものでございます。

それはさて

 かりにも不善の戯れをなすべからず

われら拳拳服膺すべき言葉でございます。