この花は、それ一つで春を知らせために開かれた窓である。それは花となった春だ。

 

― サン=テグジュベリ 「城砦」  (山崎庸一郎 訳)―

 

 

今年の冬はたしかに暖かかったにちがいない。
例年、一月の終りには一輪か二輪、枝先に花を開いているだけの大家の庭さきの梅の木は、昨日はほとん満開になって、風のないあたりの空気をよい香りで満たしていた。

花について、サン・テグジュベリはなんだか道元のようなことを言っている。

ここに出てくる「花」は、たとえば、ある人の微笑みだったり、子どもの寝顔だったり、美しい音楽の1フレーズだったり、あるいは絵画、あるいは朝家を出たときの青空だったりしてかまわないだろう。

だから、サン・テグジュベリの言葉は、こんなふうに書きかえることもできるだろう。

《その微笑みは、それひとつで、この世に善きものがあることをわたしに知らせるために開かれた窓であった。》と。

《花》にしろ《微笑み》にしろ、私たちにとって大切なのは、そこにある具体的な事物であって、けっして「春」や「善」などといった抽象的概念ではないだろう。

なげやりになりそうになったり、絶望に陥りそうなとき、私たちに生きる希望や勇気を与えるものは、いつだって、ふとしたときに目にとまる、日々のあくせくとした事象の地層に覆われ私たちの目から隠されていた世界の美しさの露頭だ。