もっと強く願っていいのだ
わたしたちは朝日の射す明るい台所がほしいと
すりきれた靴はあっさりとすて
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばしば味わいたいと
秋、旅に出たひとがあれば
ウィンクで送ってやればいいのだ
なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
おもいこんでしまった村と町
家々のひさしは上目づかいのまぶた
― 茨木のり子 「もっと強く」―
暑いですなあ!
昼前だというのに、ラジオは東京の気温は36℃を超えたと言っている。
溶けそうだ。
いやいや、ほんとうに溶けそうなのは、私ではない。
溶けそうなのは、日本国憲法であるらしい。
昨日、今日の新聞の一面には、十日前と変わらず
《改憲勢力 3分の2の勢い》
の文字。
安倍内閣の支持率はいまだ40%を超えているらしい。
げんなりする。
いいのか、ほんとに。
こんな息苦しい社会で、ほんとにいのか。
私、今回は生れてはじめて若い教え子たちに、選挙に行くように、手紙を書き、メールを打ち、電話をした。
彼ら、ほんとうに投票に出かけてくれるんだろうか。
想像力が奪われているのだと思う。
理想を夢見る想像力が。
理想と言っても、何も大それたものではない。
ただ今よりももっと風通しのよい明るい社会がありうるのではないかと思うことだ。
彼らには、今ある社会の形とはちがうものがありりうることが「想像」出来ないのだ。
私を含め、自分が選挙に行っても行かなくても社会は変わらないと思っているなら、それは、私らがほんとうに住みやすい社会を夢見る「想像力」を彼らに奪われているということではないのか。
すくなくとも彼らには、中学生時代の自分の同級生たちの半分が、不安定な非正規雇用に甘んじなければならない社会を作りだした者たちに《NO!》を言ってもらいたいのだ。
暑い!
溶けそうだ。
茨木のり子が「上目づかいのまぶた」と歌った家々からは、今はその廂さえ奪われ、のっぺりとした窓たちが白茶けた7月の日の光にさらされている。
じりじりと照りつける耐えがたい暑さを、だってそれが「現実」なのだもんと諦めている。
だが、わたしたちはもっと強く願っていいのだ。
「政治」という抽象的なぼんやりした事柄についてではなく、個別、具体の自分の願いを強く強く願っていいのだ。
そこからしか、日本の政治は変わらないだろう。