春すぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山
持統天皇
持統天皇は、一首目の作者とされている天智天皇の娘です。
でもって、天武天皇の奥さんです。
つまり、彼女は、「お父さんの弟=叔父さん」と結婚したわけですが、でもまあ、こんなことは、この時代、実はそんなに驚くべきことではない。
そして、壬申の乱では、その夫とともに、実の弟である大友皇子を倒したわけですが、ここいらあたりことは、天武死後、彼女が自分の息子に皇位継承させるためにやったことを含めて、来年あなたが日本史でよく勉強してください。
なかなか、興味深いですよ。
要は、持統天皇というのは、次の奈良時代を作り上げた「ゴッド・マザー」みたいな人だと思っていなさい。
なにしろ「持統」という彼女への諡(おくりな)は
「統(血筋)を持(たも)った」
という意味ですからね。
「ゴッド・マザー」じゃなきゃあそんな務めは果たせません。
さて、この歌、万葉集では(あなたはすでに中学校の国語でやったのですが覚えてる?)
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
という形で出てきます。
これを定家は二句目と四句目を変えて百人一首に載せたわけです。
万葉集の歌の方は、二句目と四句目で切れることは、古典文法を「極めた」はずのあなたには容易にわかると思います。
なにしろ「らし」も「たり」も助動詞の終止形ですからね。
基本的に、終止形のところが「句切れ」です。
一方、百人一首の方は、二句目では切れますが、四句目は連体形で下の句にかかります。
そのへんのことはあとにして、とりあえず問題。
*〈夏来にけらし〉を品詞分解しなさい。
(「けらし」の部分の分解は、むずかしいかもしれないから、辞書で確認しなさい)
さて、意味の方に移りましょう。
「夏来たるらし」も「夏来にけらし」も、意味は「夏が来たにちがいない」ということで、ほとんど違いがありません。
でもまあ、「来にけらし」の方がちょっと響きが優美でしょうか。(まあ、趣味の問題ですが)
さて「らし」というのは、「ある根拠・理由に基づいて、確信をもって推定する助動詞」ですから、作者が「夏が来たにちがいない」と言うための〈根拠〉が必要です。
で、その〈根拠〉は、三句目以降に示されるわけです。
「だって、ほら、真っ白な衣が干してあるじゃん、天の香具山に!」
というのが、万葉集ですな。
〈干したり〉の「たり」は「完了」ではなく「継続」の方で取るのが正しいでしょう。
そして、その「干してある」というのを作者は実際見ているわけです。
ところが、「ほすてふ」は違います。
「てふ」は、知っているとは思いますが「ちょう」と読みます。
ですから、読む時は「ほすちょう」と読んでください。
安西冬衛という詩人に、たった一行のこんな詩があります。(これは題も含めて読んでください)
春
てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。
もちろん「てふてふ」は「蝶々」のことです。
「韃靼(だったん)海峡」は北海道の北にある樺太(サハリン)とユーラシア大陸との間の海峡です。
目をつぶって、この詩イメージしてごらんなさい。
すごい詩ですよ。
でも、実はこの詩を読むときは、意味は「蝶々」であることをおさえながら、文字通り「てふてふ」と読むほうが、春浅い北の海峡を、か弱い羽根を「てふ、てふ」と開閉しながら飛んでいく蝶のイメージが湧いてきます。
閑話休題。
さて、その〈てふ〉ですが、これは「・・・という」という意味です。
ですから「衣ほすてふ」は「衣を干すという」と言うことになります。
「なんなんだ、うわさ話かよ。
あんた、自分の推論の根拠、実際に見てないで言っているのかよ!」
などとと、怒ってはイケマセン。
学者の説によると、定家はこのように変えることによって
〈神代の昔から、白妙の衣を干してきたというあの聖なる山、香具山に、今年もまた…〉
という思いを加えたというんですな。
なるほどなあ、と、私、思いました。
いずれにしても、白という色は目を驚かせます。
六月、制服が一斉に白い夏服に変わった時の教室の、その新鮮な感じを思い出してくれれば、この歌の気持ちはわかる。
「あ、夏が来たんだ!」
持統さんは、その新鮮な感動を歌ったんです。