花の色は うつりにけりな いたずらに 

 

                     わが身世にふる ながめせしまに

 

                                                      小野小町

 

 

小野小町。
美女です。
クレオパトラ、楊貴妃と並べて「世界三大美人」なんて説もある。
クレオパトラと楊貴妃には、実際にこの世の権力を握った男たちの心をとろけさせたという史実があるが、小町さんにはそれがない。
ないけれども、美女。

生まれた年も死んだ年もわからない、そんな人なのに,なんでそういうことになったかというと、彼女が作った歌が、後世の人たちにそう思わせたからなんですな。
たぶん。
そして、特に、この歌が。

そのうえ、紀貫之が、古今集の「仮名序」の中で、彼女の歌のことを、

「いにしへの衣通姫(そとおりひめ)の流なり」(昔の衣通姫みたいだ)

と書いたんですが、この衣通姫、というのが、めちゃくちゃ美しかったという、伝説の美女なんです。
なにしろ、その美しさが「衣を通して外に輝く」くらい美しかった、というんですから。

貫之は、「小町の歌の風情」が「衣通姫に似ている」だと書いたのですが、いつしか、小町の容貌の方まで「衣通姫みたいに美しかった」ってことになっていったのでしょうか。
もっとも、火のないところに煙は立たない、といいますので、実際の彼女も、たぶん美人だったのでしょう。

というわけで、むかしから「小町」は「美人」の代名詞になっております。
だから、お米の「あきたこまち」の袋にはきれいな秋田美人のお姉さんの写真が付いておりますな。
ついでにいうなら、「おじゃる丸」君の大好きな女の子は「小町ちゃん」です。

 

さて、歌の内容に入りましょう。

 

花の色は」は別になにも問題はない。
」は桜の花

うつりにけりな」。
この句の最後にある「」は終助詞で、この場合、感動を表しております
今の「・・・なあ」です。(といっても、ヤギコの鳴き声ではない)

「にけり」は《完了の助動詞「ぬ」の連用形+過去の助動詞「けり」の終止形》ですから、「うつりにけりな」は「うつってしまったなあ」ってことです。

というわけで、ここの語釈でひっかかるところがあるとすれば「うつる」ですね。

うつる」という語には、「映る」とか「写る」とか「移る」とか、それに当てられる漢字はいろいろありますが、基本的には、あるものがそのままほかの場所に現れる、ことをいう語です。
しかし、それはつまりは「場所の変化」を表すわけで、そうなると、この「変化」という意味から、「時の過ぎゆくこと」なんて意味も加わってきます。
すると、時が過ぎれば、生きているものは衰え、色あせてきますので、「うつる」にはそのような意味も加わってきました。
よって、辞書の「うつる」の項には「衰える、色あせる」という意味がちゃんと書いてあります。
つまり、「花の色は うつりにけりな」は
「(桜の)花の色は 衰えあせてしまったなあ
ということです。

 

いたづらに」は形容動詞「いたづらなり」の連用形です。
「いたづら」は、漢字では「徒ら」と書きます。
辞書には、

  •  役に立たない。無駄である
  •  むなしい。はかない。

 

という意味が書いてあります。
どちらも、基本的な意味ですからちゃんと覚えなければなりませんが、漢字が「徒ら」だと知っておけば、「徒労」という熟語を思い出せば、意味はおのずとわかりはずです。
(「徒労」の意味を知らないと言われたら、この文章を書いたことも徒労に終わるのですが)

 

さて、この「いたずらに」は上の「花の色はうつりにけりな」に倒置的にかかっている。
花の色は、いろあせてしまったなあ、むなしく
です。
でも、一方で、この「いたづらに」は、下の二句、にもかならずやその意味を響かせているはずです。
すなはち、むなしく私が 「世にふるながめせしまに」 でもあるのです。

 

というわけで、下の二句を見ていきましょう。

ここで、まず注意しなければならないのは、二つの掛詞です。
まず「ふる」というのは①「降る」と②「経(ふ)る」の二つに意味があります。
もう一つ「ながめ」の方は①「長雨」と②「眺め」です。

というわけで、一首の歌の意味は重複し、複雑化します

「長雨」が「降る」というのは、簡単ですが、「眺め」はちょっと説明が必要です。

眺め」というのは現代語のように「遠くを見やる」という意味ではなく(もちろん、そんな意味もありますが)、古典で大事なのは

もの思いに沈んでぼんやりあたりを見やる

という意味です。

じゃあ、なぜ、小野小町は「もの思いに沈んでぼんやりしていたのか」といえば、彼女は「わが身世にふる」嘆きの中にいたからです。

 

」が前の歌に続いて、また出てきました。
」は「男女の仲」でしたね。
つまり小野小町は、春の長雨が続く間、恋の嘆きの中に沈んでいたのです。
それが「わが身世にふる ながめせしまに」ということです。

 

自分が、春の長雨の中、こうやって、むなしく恋のもの思いにふけっている間に、花の色は、むなしく移ろい、色あせてしまったのね

と言っているのです。

 

たった三十一文字の中に、小野小町はこれだけの意味を歌っています。
なんといえばいいのでしょう、第一主題が流れる中、もう一つの主題がどこからともなく聞こえてくる、そんな音楽を思うべきでしょうか。
伴奏だと思っていたものが、実は主旋律に置き換わっている、とでも言いましょうか。
これが掛詞という修辞技法の力ですが、それがこの歌では、ごく自然に、流れるように歌われていますね。

 

そうそう、小町さんは美人だったので、ここで言う「花の色」というのは、実は、自分の容貌のことなのだ、という解釈もされています。
それでいくと、歌の意味は、

 

私が、恋の悩みを重ね、むなしく年月を過ごすうちに、私の美しかった容色も、いつしか衰えてしまった・・・

ということになります。
でも、ほんとうに、小町さんが、自分のことを「花みたいにきれい」だと、いわば自意識過剰なまでに、自分の顔に自信を持っていたのかどうか私にはわかりません。
彼女のほかの歌を読むと、私には、あんまりそうは思えないのですが。

でも、そのような解釈をもとに、「卒塔婆小町」という謡曲(能の台本)などが、後世出来たことは覚えておいてもいいことです。

花の色は 色あせたのね 意味もなく  

          私が恋に 悩んでる間に