難波潟(なにはがた) みじかき蘆(あし)の

 

             節(ふし)の間も

 

                                あはでこの世を すぐしてよとや

 

                                                      伊勢

 

 

伊勢(いせ)。

女の人です。
お父さんが伊勢守だったので、こう呼ばれていました。
はじめは、宇多天皇の中宮にお仕えしていたのですが、後に天皇の子を宿すことになります。
美しく、気立てよく、かしこかったのでしょう。

 

さて、歌の方ですが、これは、なかなか切迫しています。
たぶんはかしこかったであろうこの人も、取り乱しています。
恋は人を狂わせますな。

 

「難波潟」は大阪湾岸の干潟です。
あなたの家のそばの谷津干潟にもたくさん蘆(あし)が生えていますが、ここにも生えていたわけです。

蘆(あし)はイネ科の植物ですから、その茎には節(ふし)があります。
竹もイネ科の植物ですから、あの節を、ずっと細く短くしたものを思ってもらえばいい。

節の間」は「ほんの短い時間」という意味です。
というわけで、最初の二句はこの「節の間」を引き出すための序詞ということになります。

あはで」は「逢ふ」の未然形に、打消の接続助詞「で」が付いたもので、「逢わないで」。

「この世を」の「世」は、「男女の仲」ではなく、「一生」ととる方がよさそうですかね。

ちなみに「」という字は「ふし」のほかに「」とも読みます。
ですから「」と「ふし」と「」は縁語ということになっています。

すぐしてよ」は四段動詞「過ぐす」の連用形に、完了の助動詞「つ」の命令形「てよ」が付いたものですから、「過ごしてしまえ!」ということになります。

とや」の「や」は疑問の係助詞ですから、「と言うのですか?」ということですね。

 

歌全体としては

 

難波潟に生える蘆の、あの節と節の間ほどに短い「ふしのま」ほどの時間さえ、あなたにお逢いすることもできずに、私に、これから先の一生を過ごしてしまえ、とあなたはおっしゃるのですか!

 

という、意味になるんでしょう。

 

これは、彼女の初恋の相手、藤原仲平(なかひら)という人におくった歌だということになっています。たぶん、この時、身も心もささげてきた初恋の男から、
「もう、逢うのはよそう」
という手紙が来たんでしょうな。

「どうして、そんなこと言うの? なぜ、そんなことが言えるの?」

と、泣き叫び、問い詰めたい、その思いが、歌にそのまま乗り移ったような、そんな歌ですね。
「過ぐしてよとや」の「てよ」(してしまえ)という語に、彼女の恨みがこもっているように見えます。

 

 難波潟 あしたからもう つかのまも  

 

    お逢いもできず 過ごせというの?