今来むと いひしばかりに 長月の

 

        有明の月を 待ち出でつるかな

 

                素性法師

 

 

素性法師(そせいほうし)。
この人は、「をとめのすがた しばしとどめむ」の歌を詠んだ僧正遍昭の息子です。
もちろん、遍昭がまだ良峯宗貞といっていた頃の息子ですが、お父さんが、「法師の子は法師になるがよい」と言われて、無理に出家されたのだと「大和物語」に書いてあります。

 

さて、この歌、その素性法師が、女の身になって「待つ恋」のつらさを歌ったものです。
なんだ、お坊さんが、と、変な気がするかもしれませんが、今、きみたちが聞いて「いいなあ」と思っている女の人の歌だって、実は、男の作詞家が作詞したものがたくさんあることを思えば、別に不思議でもなんでもない。
男が女に成り代わって歌を作っても、それが女の気持をわかっていない、ということにはなりませんよね。

 

さて、歌を見ていきましょう。

 

今来むと」の「今」は「今すぐ」という意味ですし、「来む」の「む」は意志を表す助動詞ですから、「「『これからすぐそっちに行くよ』と」です。

 

いひしばかりに」は「言ったばかりに」「言ったせいで」。
言ったのは、相手の男ですね。
もちろん、ケータイやスマホもない時代ですから、「言った」といっても、これは、相手からお使いが来て、そう伝えて寄こした、ということです。

 

「長月の」の「長月」が「九月」であることは知っていますね。
ただし、陰暦では、七月(文月)、八月(葉月)、九月が秋ですから、長月は秋の終わりです。
もちろんこの「長月」という言葉には「長い」という意味も歌全体に響いているはずです。

 

「有明の月を」の「有明(ありあけ)」は、明け方になっても空に残っている月のことです。

ということは、満月を過ぎたお月さまは、皆、有明の月になり得るのですが、イメージ的には下弦の月になる少し前の二十日過ぎからの月という感じでしょうか。
というわけで、「長月の 有明の月」が見られるのは、ほんとうに秋も終わりの頃のことです。
ちなみに、お月さまは、一日だいたい48分(24時間÷30日)ずつ、出てくるのが遅くなりますから、二十日の月だと、だいたい午後十時くらいに、そして下弦の月なら真夜中にのぼってきます。

 

「待ち出でつるかな」の「待ち出で」は「待ちかまえて逢う」あるいは「出るまで待つ」ということです。 「つる」は完了の助動詞〈つ〉の連体形。 「かな」は感動・詠嘆を表す終助詞で「・・・だなあ」「・・・であることよ」。

 

というわけで、歌全体の意味は、

 

「すぐに逢いに行くよ」というお手紙をあなたがくださったばかりに、私は、長月の秋の夜長を、あなたのおいでを待ちわび、待ちわびましたが、私が待って逢えたのはあなたではなく、ひとりむなしく、夜更けて出てくる有明の月が出るまで待ったことになってしまったのですわ。

 

という感じになります。

 

百人一首を選んだ藤原定家は、この歌について、一夜のことではなく、

近いうちに逢いに行くよ、と言われて、来ない男を毎晩毎晩待っているうちに、いつしか秋もたけ、月さえ有明になってしまった

そんな嘆きを歌ったのだと解釈したそうです。

いずれにしても、この歌、「待ち出でつるかな」という結句八音の字余りが、男を待つ女の失望と未練をいかにも巧みに表している感じがしますね。

 

いま行くと 言われ長き夜 長月を

       あなたを待てば 有明の月