月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ
わが身一つの 秋にはあらねど
大江千里
大江千里(おおえのちさと)。
この人にも、肩書や敬称・親称がついていませんね。
この人は業平さんの甥にあたるそうです。
なかなかの学者さんであったらしい。
「月見れば」。 何にも問題ないですよね。
「ちぢにものこそ 悲しけれ」。
「ちぢに」は形容動詞ナリ活用の連用形で、もともとは『千の』という意味です。
そこから② 数が多い、たくさん ③ いろいろ、さまざま
という意味が派生してきます。
「悲しけれ」は「こそ」を受けて形容詞「悲し」の已然形ですね。
「かなし」については、以前にも書きましたが現代語の「悲しい」という意味に、あまり引張られてはなりません。
あくまでも《自分ではどうしようもないと感じる切なさ》とイメージを忘れないことです。
「わが身一つの 秋にはあらねど」
「あらねど」を品詞に分解すると、ラ変「あり」の未然形「あら」+打ち消しの助動詞「ず」の已然形「ね」+接続助詞「ど」です。
「ど」は逆接の確定条件を表す助詞ですから「…けれども」「…のに」という意味を表します。
というわけで、歌全体の意味を書けば
秋の澄み切った夜空にかかる月を見上げていると、さまざまなせつない思いが胸をよぎり、私の心は、ものがなしさにつつまれる。
もちろん、秋というものは、誰の上にもやってくるものだと知ってはいるのだが、こうやって、月を見ていると、まるで、ただ、わたしひとりが秋の中にいるようで・・・。
といったところでしょうか。
月見れば なぜだが胸が せつないよ
秋はみんなに 来ているのだが