このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向(たむけ)山

 

                               紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに     

 

                                         菅家

 

 

菅家(かんけ)。
名前は菅原道真(すがわらにみちざね)。
右大臣(政権のナンバー2、ですね)にまでなった人です。
でも、この人、各地に「天神様」として祀られている、《学問の神様》として有名です。
なぜ、この人が、天神様(早い話、「カミナリさま」です)として祀られるようになったか、その理由は、三年生になったら、日本史で詳しく習いますから、たのしみにしてらっしゃい。
彼もまた、藤原氏が権力を一家のもとに掌握するためにおこなった「他氏排斥運動」の犠牲者なのです。

 

さて、歌の方ですが、これは子どもたちが「まにまにの歌」と呼んでいるので、まず「まにまに」という語の意味から始めましょう。

 

「随に」と書いて「まにまに」です。
漢字からわかるように、《御随意に》、《お好きなように》という意味です。
英語でいうなら《As you like》ですか。
シェークスピアの《As you like it》という喜劇の邦題に従えば「お気に召すまま」。

 

というわけで、「神のまにまに」は「神様のお気に召すまま」ってことです。

 

では、神様に何を「まにまに」してくださいと言っているかといえば、その前にある「紅葉の錦」をです。

 

「錦(にしき)」というのは、金糸銀糸を混ぜて織りあげた華やかな織物のことですが、山を彩る紅葉の美しいさまを、そうたとえたわけです。

 

さて、古代、旅をする人にとって、陸路、一つ山を越えると、そこは異郷でした。
「異郷」とは、自分たちが住む場所の神とは違う、その土地の神様(国つ神)が、おられる土地のことです。 ですから、道が山をのぼりつめたところ、すなはち、「峠」といわれる場所で、これから新しく入る土地の神に、道中の災いから身を守ってもらうため、祈りとともに、お供え物をしました。

それが《手向け》です。
この歌に出てくる「手向山」というのは、奈良にある山だそうですが、特定の山を指す固有名詞ではなく、そのような国と国の間を分かつ山だと取った方が歌の奥行きが広がるように思えます。
ついでに書いておけば、「峠(たうげ)」という言葉はこの「たむけ」から転じた言葉だと言われています。
また「峠」という字は、中国にはなく、日本で作られた漢字(国字)ですが、見渡す限り平原が続く中国大陸の人々にとって、そこを越えれば異国になるという「峠」は、その存在も、またその概念もなかったにちがいありません。

 

「幣(ぬさ)」というのは、この《手向け》に使うささげ物のことで、木や竹の棒に、布や紙を垂らしたもののことです。

 

ところが「このたびは」(これは、「今回は」という意味の「このたび」と「この旅」の掛詞ですね)、その「幣もとりあへず」だったと、道真さんはいうのです。
「とりあへず」と聞けば、続けて「ビール」と、世のおじさんたちは飲み屋に入ったときに言いたくなるのですが、これは、もともと「取るべきもの(たとえば、私なら熱燗)も取らずに」ということから来ている言葉です。

道真さんも、「本来なら用意すべきであった幣を急ぎの旅で用意できなかった」、と言っているんです。

 

というわけで、歌全体としては

 

手向山の峠の神様、このたびの私の旅は、あまりに急な出立で、あなたに捧げる幣の用意もございません。 ですから、この錦のように美しい紅葉を、わたしの幣として、あなたのお気に召すまま受け取ってくださいませ。

 

このたびは 幣も持たずに 来たのです

                     神よ 紅葉を  お気に召すまま