みかの原 わきて流るる いづみ川

 

    いつみきとてか 恋しかるらむ

 

 

                           中納言兼輔

 

 

中納言兼輔(ちゅうなごん・かねすけ)。

藤原兼輔、この人、紫式部のひいおじいちゃんです。

《中納言》というのは、左右の大臣や大納言と並んで、公卿(くぎょう)=上達部(かんだちめ)と呼ばれる、政権中枢部の約20人の中の一人ということですから、今の国務大臣みたいなものだと思ていればいい。

 

さて、この歌ですが、あなたもだいぶ百人一首の歌に慣れてきたから、ひょっとして、上の三句が「いつみき」を引っ張り出す序詞じゃないかしら、と思ったかもしれません。
だとすれば、すばらしい!
正解です。
「いづみ川」と「いつみき」が同音ですものね。

 

というわけで、歌本来の意味は例によって後半だけです。

「いつみきとてか」はもちろん「いつ見きとてか」ですから「いつ見たというので」

「恋しかるらむ」の「らむ」はたびたび出てきましたから、もう大丈夫ですね。
意味は「恋しいのであろうか」。
だから歌の意味は

 

いつあなたに逢ったからというので、こんなにもあなたが恋しいのだろうか!

 

でも、やっぱり、歌は前半の序詞がないとさびしい。

その序詞を見ていきましょう。

 

「みかの原」は京都にある「甕の原」という地名です。
「いづみ川」はそこを流れている「泉川」という川の名。
「わきて流るる」は「湧きて流るる」でしょうか、「分きて流るる」でしょうか。
まあ、どちらの意味にとってもいいし、どちらの意味でも取れという掛詞でしょう。

 

みかの原に湧いて、みかの原を分けて流れる 泉川。

 

うーん、別にぃ、といった感じですな。
なんてこともない言葉ですが、ともかくこれが「いつみき」を引っ張り出す序詞です。

 

いま、「なんてこともない言葉」とかきましたが、歌というものは、意味ももちろん大事なのでしょうが、響きや、調子もまたとても大切な要素です。
ひょっとしたら、そちらの方が、実は歌にとっては「意味」よりも大切なものかもしれない。
君たちがイヤホンで聞いている曲だって、メロディやリズムがすてきであることが、いい曲の大事な要素でしょ。

さて、どうでもいいことですが、実は、この歌、私、百人一首の中でもかなり好きな歌なんです。
ちょっと、声に出して読んでみてごらんなさい。
なんだか、気持ちがいい。

 

さて、この歌、声に出してみて、まず気づくことはカ行の音がとても多いことです。
「k」の音というのは、からりと乾いた印象を与える音です。
「いつ見たから恋しいのでしょう」なんて、なんだかオタクの恋みたいな、湿っぽい感じがする内容なのに、むしろ印象が明るいのは、

kaのはら kiてながるる いずみがわ いつみkiとてka koひしkaるらむ

とならぶこの「k」の音のせいだろうと思うのですが、どんなものでしょう。

しかもです、この歌、「みかのはら」と、まず、口ごもるような「m」の音で始まります。
これもすばらしい。
人知れず湧き出る小さな泉の水と、おずおずと始まった恋のイメージがそこに重なります。
なおかつ、その「m」の音も歌の中に間欠的に配置されているのもなかなかこころにくい。

 

・・・などというのは私の妄想で、あんまり信用なさらぬがいい。

 

でもですね、妄想ついでに申しますとですね、あなた、スメタナという作曲家の「モルダウ」という曲を知っていますか。
モルダウというチェコを流れる川を音楽に表現した作品です。
私の勝手なイメージの中では、そのモルダウの曲の出だしと、この歌が重なるんです。

その始まり、フルートか何か、木管のくぐもった音が小さく流れ始めた水の流れを表現するのですが、そこに弦楽器のピチカートが入る。
くぐもった木管が「m」音で、弦をはじくピチカートが「k」音だと言うのは、相当の牽強付会ですが、でも、兼輔の歌もスメタナの曲も、泉、あるいは若さが持つためらいと、にもかかわらずそこから弾け溢れだすういういしい生命力が表現されているように思ったりするのです。
まあ、You tubeか何かで聞いてみてごらんなさい。
私の妄想癖がどれほどのものかわかります。

 

というわけで、妄言はさておき、歌の意味を書いてみれば、

 

みかのはらを分けて流れていくいづみ川よ、
おまえは、どこから湧いて流れているのかしら。
そして、私のこの恋も、
いつお逢いしたからというので、あの人をこんなにも恋しく思うのだろう。
まだお逢いしたこともない人なのに。

 

といったところでしょうか。

 

ところで、当時において男女の間で使われる「見る」という言葉が、単に相手を「目にする」以上のことを示唆する言葉であってみれば、これを現代に置き換えてみると、中学生や高校生が、遠くから目にするだけで、言葉を交わしたこともない相手にひそかな恋心を抱くさまを歌っているのに似ているのではないか、と、これまた勝手に思ったりするのも、泉という清らかなイメージと、どこか心地よく軽快なこの歌の調べのせいです。

 

というわけで、勝手に、季節をすがすがしい五月にして、蜜柑の花を歌の中に咲かせてみました。

 

 

みかん咲く 丘のくだりゆく いづみ川 

 

       いつみたからと 好きになったの