山里は 冬ぞさびしさ まさりける
人目も草も かれぬと思へば
源宗于朝臣
源宗于朝臣(みなもとのむねゆき・あそん)。
この人も「源」姓ですから、皇族から臣下に下った人ですね。
春の野に出て若菜を摘んだ、あの光孝天皇のお孫さんです。
お祖父さんは、春の歌を詠んだのに、孫の方は冬の歌です。
この人、あんまり出世できなかった。
さて、歌を見ていきましょう。
これは、たいそうわかりやすい歌です。
これなら、あなただって、さっと現代語に置き換えることができる。
山里というのは、そもそもさびしいものだが、ことに冬になるとそのさびしさが増すものです、人目も草もかれてしまったと思うと。
簡単です。
「じゃあ、次の歌にいこう!」
となってもいいのですが、ちょっと気になる所がある。
冬になって、草が「枯れる」のは、わかる。
でも、人目も「かれる」って何のこと?
「それはですね、冬は乾燥するから、ドライ・アイになりやすいってことです!」
と答えてはいけません。
この答え、ジュリらしい、と言われるかもしれませんが、確実にバカにされます。
冬が乾燥するのは太平洋岸のここいらあたりだけのこと。
金沢は毎日曇って雪が降るし、京都も時雨の降る日が多い。
実はですね、「かれる」という言葉には「枯れる」のほかに「離(か)れる」という言葉もあるのです。
で、
歌の中に「かれる」という言葉が出てきたら、もう、十中八九、この「枯る」と「離る」の掛詞
なんです。
だから、ちゃんと覚えておきなさい!
「離(か)る」の意味は、文字の通り「離(はな)れる」ってことだと思っていればよろしい。
彼との仲が「かれる」のはイヤですな。
ちなみに「よがれ」という言葉があって、漢字で書けば「夜離れ」。
これは、夜、男が女のところへ通ってこなくなって、男女の仲が途絶えることです。
これ、女を思う男の気持ちが「枯れ」ちゃった、とも言えそうですね。
というわけで、歌をもう一度現代語にしてみれば、
山里はいつもさびしいものだけれど、冬は、さびしさ、つのります。
人が訪ね来ることも間遠になり、あたりの草も枯れてしまったと思うにつけ。
やっぱり簡単だった!
わかりやすい歌だから、愛唱されたのかもしれませんね。