恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
人知れずこそ 思ひそめしか
壬生忠見
壬生忠見(みぶのただみ)。
「有明の つれなく見えし 別れより」の歌の壬生忠峯の息子です。
父親の身分も低かったが、息子の身分も低い。
この時代、実力ではなくまったく門地だけが人の位を左右した究極の身分制社会。
貴族政治の時代というものはそんなものなのです。
ところで、これが、前の平兼盛と歌と、歌合(うたあわせ)で競い合った「忍ぶ恋」のもう一方の歌です。
どっちが、「忍ぶ恋」の歌としてすぐれているか、あなたも判定してみてください。
「恋すてふ わが名は」。
「てふ」は 「衣干すてふ 天の香具山」で出てきましたね。
「ちょう」と読んで「・・・という」という意味でした。
ですから、「恋すてふ わが名は」は
「私が恋しているというウワサは」
ということです。
「まだき 立ちにけり」。
「まだき」は「まだその時期がこないうちに」「早くも」「もう」。
(「朝まだき」などという言葉があって、これは「まだ夜が明けない頃」ということです。)
というわけで、前半三句は
「あいつ、恋をしているらしぞ」という私の噂が、もう立ってしまった!
といっているわけです。
で、後半、「人知れずこそ 思ひそめしか」。
もちろん、最後の「しか」は、
過去の助動詞「き」の連体形「し」+疑問の係助詞「か」
ではありません!
そんなふうにとると、
あれっ?俺、人の知らないうちに恋ををしてたんだろうか?!
なんて意味になってしまう。
そうではなくて、係り結びの権威であるあなたには言うまでもないでしょうが、「しか」は前の
係助詞「こそ」を受けている結びですから、過去の助動詞「き」の已然形「しか」
です。
ところで、
「こそ」+已然形の結びは、そのまま逆接の意味として、下につながっていく場合が多い
ことに注意してください。
「何言ってるの、先生、この歌はここで終わりで、下なんてないじゃん!」
などいう浅はかなことは口走らないでくださいね。
あのね、これは「倒置法」が使われている歌なんですよ。
そうじゃなくても、歌の場合、「こそ」+已然形で、逆接の意味を持たせることで余韻が響くんです。
あなたは中学校の時に習った西行さんのこんな歌を覚えていますか?
道の辺に 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 立ちどまりつれ
この歌、「こそ」「つれ」の係り結びですね。
これを解説してテラニシは
お日さまがカンカン照っている真夏の真昼の道。
その道の脇に、きれいな清水が涼しげな音を立てて流れ、一本の柳が木陰をつくっている。
私は「ちょっとひと休み」のつもりで立ちどまったのだが・・・。
(ついつい長くそこにいてしまった!)
てなことを言った。
ここで(ついついそこに長居してしまった!)という意味をとれなければ、歌そのものがまるでわかっていないことになる。
いいですね、《已然形は逆接》です。
(まあ、そうじゃない場合も多いんだけどね)。
というわけで、「人知れずこそ 思ひそめしか」は、
人に知られないように知られないようにと、まだあの人を思い始めたばかりなのに・・・。
それなのに、「もう、人の噂になってしまっている」のです。
たしかに、それは、「まだき」=「まだその時期がきていないのに」ですね。
というわけで、「忍ぶ恋」とは言いながら、先の平兼盛の歌もこの壬生忠見の歌も、どちらも、結局は忍び通すことができなかった恋を歌っていることになる。
全然、忍んでない!
なにしろ、みんなにわかってしまったんですもの。
ダメじゃん!
とはいえ、それというのも、そもそも、恋などとというものは、自分の内部に突然生まれ出た自分とは別の生き物なのであって、だからこそ、本人の意思に反して、外に表れてしまうからかもしれません。