契(ちぎ)りきな かたみに袖を しぼりつつ

 

  末の松山 浪越さじとは

 

                    清原元輔

 

清原元輔(きよはらのもとすけ)。

清少納言のお父さん。
ですから、「雲のいづこに 月宿るらむ」の歌の清原深養父の孫です。
この人、頭が禿げていた、と、今昔物語に出ている。
まあ、どうでもいいことですが・・・。

 

さて歌。

 

「契りきな」。

「ちぎる」は契約の「契」の字が入っていますから、わかると思いますが、意味は

  1.  約束する。愛を誓う。

もうひとつ

②  男女の交わりをする

 

こんな二つの意味があるのは、愛を誓えば、おのずとやがて男女の交わりを結ぶからなのか、それとも、男女がはじめて一緒に寝た時には、お互いそのような愛の誓いを口走るようにできているものだからなのか、それはわかりませんが、古語の「契る」には、ともかくこの二つの意味がある。

 

というわけで、歌は

「契りきな」=「ぼくたち、愛を誓いましたよね!」

と初句で切れる。

 

「かたみに袖を しぼりつつ」。
「かたみに」は「互に」と書きます。
文字通り「お互いに」という意味です

 

「袖をしぼりつつ」。
袖を絞るのは、袖が濡れるからで、何に濡れるかといえば、涙です。
「つつ」が《動作の反復》であることは、もうあなたもわかっていますね。

ですから、ここまで

「お互い、泣き濡れ、泣き濡れしながら、ふたり、愛をちかいましたよね!」

と言っているわけです。

 

後半が、その誓いの内容です。

「末の松山 浪越さじとは」。
「末の松山」というのは、宮城県多賀城市にある歌枕。
海辺近くにありながら、けっして浪をかぶらないという伝承があった。
芭蕉さんも「奥の細道」の旅で、訪れている。

先の東日本大震災のときも、末の松山の下まで波は押し寄せたが、越えることはなかった。

 

「越さじ」は四段動詞「越す」の未然形+打消推量の助動詞「じ」ですから、意味は 「越すことはないだろう」 です。

 

東日本大震災でも波が越えなかった「末の松山」を「波は越さないだろう」というのは、まるで、あたりまえの話のようですが、この歌には本歌がある。

 

君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波もこえなむ

 

あなたをさしおいて、ほかの誰かに、浮気な思い(あだしごころ)をもし私が持ったりしたなら、あの末の松山を、波もきっと越えてしまうでしょう。
(そんなことがけっして起きないように、私もけっしてあなたを裏切ったりしない)

 

という、古今集の東歌の中に載っている歌です。
(この歌の最後の「なむ」の識別、ちゃんと出来ましたよね?)

 

つまり、この歌で「末の松山 浪越さじ」というのも同じことで、

「ぼくたちは、けっしてお互いのことを裏切ったりしないから、波は、末の松山を越えないよね」

そう私たちは誓ったでしょ、といっているのです。
そして、

なのに、あなたは心変わりをしてしまったんですね、

と責めているのです。

 

この歌の詞書には 「心かはり侍りける女に、人に代わりて   清原元輔

と書いてあるそうなので、この歌、自分のことではなく、女にふられた誰かに代わって詠んであげた歌なんです。

ゴーストライターですな。

 

 

約束を したねお互い 泣きながら

 

       あの松山を 波は越えぬと