あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな
謙徳公
謙徳公(けんとくこう)。
藤原伊尹(「ふじわらのこれただ」。あるいは「これまさ」とも)。
公というのは、身分の高い人に対する尊称で、この人は摂政・太政大臣だった。
「謙徳公」というのはこの人が亡くなってからおくられた諡(おくりな)です。
この歌には、こんな詞書がつているそうです。
「物いひ侍りける女の後につれなく侍りてさらにあはず侍りければ」
(つきあっていた女が、だんだん冷たくなって、全然逢えなくなってしまったので)
というわけで、これは、前の
逢ふことの たえてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
という歌の中にある「恨み」の具体的な例として定家さんはこの歌を続けて並べたのかもしれない。
まあ、ふられた男の嘆き節だと思って読んでください。
「あはれとも いふべき人」というのは、
「『ああ、かわいそうに』とだけでも 言ってくれるはずの人」
といった感じでしょうか。
「おもほえで」。
下二段動詞「おもほゆ」の未然形に、打ち消しの接続助詞「で」が付いたものです。
「おもほゆ」は、「ひとりでに思われてくる」といった意味ですね。
「おもほゆ」と聞けば、柿本人麻呂に
淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
情(こころ)もしのに 古(いにしへ)おもほゆ
という絶唱があったこと「ひとりでにおもいだされる(おもほゆる)ことでございます」、なんて言葉があなたから出てくると、すてきなですが。
と、それはさておき、ここまでの「あはれとも いふべき人は おもほえで」は、
あなたに冷たくされて、私には、「ああ、かわいそう」と、私のことをいとおしんでくれそうな人も思い浮かばず、
といっているわけです。
「身のいたづらに なりぬべきかな」。
「いたずらに」は小野小町の
花の色は うつりにけりな いたづらに
という歌で出てきましたね。
「徒に」と書いて、「むだに」「むなしく」「はかなく」といった意味でした。
「いたづらになる」となると「むなしく死ぬ」という意味にもなります。
「ぬべき」。
「ぬべし」。
大丈夫ですね。
これは、完了の助動詞「ぬ」の終止形+推量の助動詞「べし」でしたね。
このとき「ぬ」は完了の意味ではなく、「べし」の意味を強める働きをしているのでした。
「ベし」にはたくさん意味がありましたが、この歌の場合は「推定・予定」でとるのがよさそうです。
「きっと…するにちがいない」
だから、「私は、きっとむなしく死んでいくにちがいないのです」と言っている。
もう一度、歌全体を訳してみれば
あなたにすげなくされた私には、もう、いとおしんでくれるような人もなく、きっと、ただ、むなしく、むなしく日を過ごし、死んでいくにちがいないのですね。
何を甘ったれてんのよ!と女の人からは言われそうですが、まあ、そんなことを言う人には、シェークスピアの書いたロミオの言葉をおくっておきましょうか。
He jests at scars that never felt a wound.
(人の傷跡をばかにするのは、傷の痛みを知らぬやつだ)
もっとも、伊尹さんが、この歌を本気で書いたのか、それとも純情なポーズを作って見せただけなのかはわかりません。
いとおしむ 言葉くださる 人もなく
わたしは死んで いく身なのです