さびしさに 宿を立ち出で ながむれば

 

   いづくも同じ 秋の夕暮

 

    良暹法師

 

 

良暹法師(りやうぜんほつし)。
伝記はよくわからないらしい。

これもちっともむずかしい歌ではないですね。
ただ《宿》は旅宿ではなく、自分が住んでいる住居、あるいはその敷地のことだということは間違えてはいけません。

夕暗む肌寒い部屋の中にいても、 なにとなくものさびしく
家のおもてに出てはみたのだが
そこにあったものは
見渡すかぎり
やはりただたださびしい 秋の夕暮れだった

春、心弾む思いがするのは、春という季節が目を楽しませるさまざまな色に満ちているからなのだろう。
それに対し、ものみな枯れる冬へと向かう秋の寂寥感は、たしかに「いづくもおなじ」と言いたくなるものがある。

この前の能因法師の歌は、はなやかな秋。
この良暹法師の歌は、さびしい秋。
同じお坊さんの二つの秋の景色を定家は並べておいたんですね。

 

さびしさに 外に出てみりゃ 見はるかす

 

   どこも同じさ 秋の夕暮