高砂の 尾上(をのへ)の桜 咲きにけり

 

  外山(とやま)の霞 立たずもあらなむ

 

 

    前中納言匡房

 

前中納言匡房(ぜんちゅうなごん・まさふさ)。

大江匡房は「やすらはで 寝なましものを」の歌を詠んだ赤染衛門の曾孫です。
なかなか学問ができた人らしい。

 

詞書に曰く、

内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうびて歌よみ侍りけるに、はるかに山桜を望むといふ心をよめる

(内大臣の家で、人々が酒を飲んで歌を読んだ時に《はるかな山桜を見る》という題で詠んだ歌)

というわけで、一杯機嫌の宴会で詠んだ歌ですな。

《高砂の》。
この高砂は、あの「高砂の松も昔の友ならなくに」の歌にあった兵庫県の高砂ではなく、どうやら「高い山」という意味に使われているらしい。

《尾上》。
山の稜線を尾根といいますが、要は、「尾上」は山の峰の上ということです。

《外山》。
子どもの頃は当然「とやまのかすみ」、と聞けば、隣県の「富山の霞」のことだろうと思っていましたが、まったく関係ありません。
《外山》というのは、〈山の中心からはずれた山〉ということで、鹿の声が聞こえると秋がかなしくなる、あの《奥山》の対になる語です。
つまり、里近い、ふもとの山です。

《立たずもあらなむ》。
できますね、《なむ》の識別!

前にある「あら」がラ変動詞「あり」の未然形ですから、これは終助詞の《なむ》ですね。
意味するところは、「他にあつらえ望む」でしたよ。
現代語にすれば 「・・・してほしい」・「・・・してもらいたい」 でしたね。

ですから、「外山の霞よ、立たずにいてもらいたい」という意味になりますね。

 

春もいつしかにたけて、
あの高い山の峰の上にまで桜が咲いた
おお、手前の山の霞よ、どうか立たずにいておくれ
おまえが立つとあの桜がおまえにまぎれて、
どれが桜か、どれが霞かわからなくなってしまうから

この歌、「咲きにけり」と三句目でぶっつり切れている。
別に三句切れの歌が悪いわけではないが、詞書を読んでしまうと、酔っぱらったおじさんが、歌の題を出されて、酔った勢いで、とりあえず上の句だけを一気に詠んで、それから、しばらく間をおいて、下の句を付けた…みたいな感じがぷんぷんにおってくる。
だから、あんまりいい歌とも思えないのだが、でもその場にいた人たちは、「おお!」と盛り上がったんだろうなと思う。
遠くの桜を詠んで、「あれは花なのか霞なのか」なんて歌がたくさん作られたころだからこそ、《外山の霞 立たずもあらなむ》は、共感を持って受け入れられたのだと思う。

遠山の 峰の桜が 咲きました

  

   霞立てるな 近くの山よ