憂かりける 人をはつせの 山おろし
はげしかれとは 祈らぬものを
源俊頼朝臣
源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)。
「としより」って若いころから呼ばれて、なんだか、かわいそうな名前ですね。
まあそんな名前だから 《憂かりける→ハゲ》(つらかったハゲ) と歌ったわけではもちろんない。
この人
夕されば門田の稲葉おとづれて
の源経信さんの息子です。
詞書に曰く、
権中納言俊忠の家に恋の歌十首よみ侍りける時、いのれどもあはざる恋といへる心を
(権中納言俊忠の家で恋の歌十首を読みました時、《祈っても逢うことができなかった恋》という心を)
これも題詠ですが、前の歌のような、皆が酒を飲んで、どうだ、歌でも詠もうか、わーい、てなわけではない。
むしろ、気鋭の歌詠みたちが、それぞれに、これぞ!と思う恋の歌を持ち寄って、わかる者同士、それを批評をし合うような会だった。
その中に《祈れどもあはざる恋》という題もあったというわけです。
「恋っていうのは《祈れば逢える》ものなのかよ!」
と言いたくもなりますが、とりあえず、歌のことば、見ていきましょう。
《憂かりける人》。
「憂し」は文字通り「憂鬱だ」とか「うっとうしい」というのが第一義ですが、ここでは
「つれない」とか「無情だ」
という意味になる。
つまり、《憂かりける人》というのは、「憂くありける人」で
私の思いを受け入れてくれなかった人
です。
《はつせ》。
地名です。
初瀬。
ここに長谷寺という、観音さまを祀ったお寺がある。
この観音さまは、拝んで願い事をすると、現世での欲望がかなえられるというありがたい観音さまで、まあ、当時の人々はみなここへ通った。
とはいっても、これは今の奈良県の桜井市(奈良市よりずっと南です)にあるから、京の都からは相当遠いですよ。
《山おろし》。
山から吹き下ろす風です。
長谷寺は山の中にあります。
《はげしかれ》。
形容詞「はげし」の命令形ですね。
「はげしくあれ」ですな。
実は、この歌、ちょっと、わかりにくい。
《憂かりける人を》ということばと《はつせの山おろし》の間が見えにくい。
たぶん、《はつせの山おろし》は呼びかけとして挿入されているんだろうが、その挿入のされ方が、二句目の半ばからなので、なんともギクシャクした感じがする。
だから「はつせ」ということばが、何かの掛詞であって「人をはつせ」で何か意味あることばになるんじゃないかと思ったりしたのだが、よくわからない。
《人を「果つ」》では「果つ」が自動詞だから「を」は使えない。
《憂かりける人を「外せ」》ということで、
「私に冷たい人の気持ちをとりのけてくれ」
ということだろうかしらと思いながら、解説書を見るが、そんなことはどこにも書いてない。
で、愛ちゃんの国語便覧をよーく見ていると、驚いたことに、そこに載っているこの歌の三句目が
山おろしよ
と「よ」が付いて字余りになっている。
えッ! と思って、古語辞典の巻末付録の百人一首を確認してみると、それもやはり
山おろしよ
である。
どいや、どいや。 私は三十年間、子どもたちにまちがって読んできたのか!
と、押し入れから箱を引っ張り出して、百人一首の読み札を確かめてみると、そこには、ちゃんと、字余りなしに
山おろし
とだけ書いてある。
中学校の《国語資料集》をみると、それも字余りなし。
うーん、謎だ。
どっちが正しい?
でも、《山おろしよ》の字余りはどうもいただけない。
たとえ、意味は「初瀬の山おろしよ」と呼びかけているにしても、私の書き変えた歌ではあるまいし、そんな流れを断ち切るような歌では人々の愛唱に堪えないのではないかなあ。
あなたが持っている資料ではどうなっているか、確かめてください。
とりあえず訳を書いてみましょう。
私が愛し
そのために私につらいひとが
どうか私に やさしくなびいてくれるように
どうかそんな風を吹かせてくださいと
私は観音さまにお祈りしました けれども、
吹いてきたのはまるで初瀬の山おろし!
あの人が、
こんなふうに 私につらく当たってほしいとはけっして祈りはしなかったのに!!
憂きまでに つれなき人を なおさらに
冷たくなれと いのらざりしよ