瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ
崇徳院
崇徳院(すとくいん)。
第七十五代の天皇です。
前の歌のところにも書きましたが、この方は保元の乱の主役の一人なのですが、上皇の身でありながら、なぜ、そんなことになったのか。
実はこの方、生まれた時から悲運の星の下にあった。
ちょっとドロドロしていますが、そのうち日本史で習う大事な事件の、その底に流れる事柄ですから書いておきます。
崇徳院は鳥羽天皇の第一皇子でした。
母親は待賢門院璋子(たいけんもんいん・たまこ)。
たいそうな美人だったらしい。
この璋子、崇徳院の父親鳥羽天皇のところに入内(じゅだい)する前、鳥羽天皇の祖父白河上皇に寵愛されていた。
しかも、璋子が十六歳(あなたより若いなあ)で入内した後も、この白河上皇は、孫のお嫁さんである彼女とイケナイことをしていた。
とんでもない話ですが、この院政期にあっては、天下の実権は、天皇や摂関家にあったのではなく、すべて上皇の手にあった。
いわんや、男女の仲のごときは批判も非難もあったもんではない。
そうするうちに、璋子に子どもが生まれた。
子どもは顕仁(あきひと)親王と名付けられたのですが、鳥羽にしてみれば、これは自分の皇子だけれど、本当はどうやら祖父の子ということで、自分から見れば叔父ということになる。
それで、鳥羽はこの第一皇子を「叔父子」と呼んで、終生嫌うことになる。
あげく鳥羽は、この顕仁親王が五歳になった時、祖父白河院の圧力で譲位させられ、親王は崇徳天皇になるわけです。
ところが、その後、白河が崩じ、今度は鳥羽が院政をとるようになる。
やがて、鳥羽は自分の寵愛する美福門院に子どもが生まれると、三カ月でその子を皇太子に立て、わずか二歳で、二十三歳の崇徳天皇を譲位させ、その子を天皇(近衛天皇)に据える。
おしめもとれぬような幼児が天皇だなんてちゃんちゃらおかしいが、鳥羽にしてみれば、かつて自分が白河院にされたことを、崇徳天皇にやってみせたわけです。
復讐なんでしょうか。
そうして、ふたり上皇が出来たので、鳥羽は出家して法皇となり、「本院」と呼ばれ、新たに上皇となった崇徳は「新院」と呼ばれるようになる。
さて、そのうち、近衛天皇が十七歳の若さで崩御することになる。
すると、鳥羽院は、こんなに若死にしたのは崇徳院の呪いのせいだとして、新しい天皇に、崇徳の皇子をさしおいて、28歳の自分の弟であたる人を後白河天皇として即位させる。
それが1155年のことです。
これによって、崇徳が院政を敷く可能性を奪ったわけですが、翌1156年に鳥羽院は崩御する。
すると、すぐに崇徳は後白河天皇を倒すべく保元の乱を起こすことになる。
しかし崇徳は敗れ、讃岐に流され、配所に居ること九年、その間、爪も切らず髪も梳かさず、憤怒と恨みの思いのうちに崩じることになる。
彼の怨念はすさまじく、貴族の世が終わり、武家の世になったのも彼の怨みのせいだとされたりした。
その崇徳の怨霊と西行との問答が江戸時代の上田秋成の「雨月物語」に「白峯」として書かれているので、現代語訳ででも読んでごらんなさい。
おもしろいですよ。
とまあ、すさまじい生涯をおくった崇徳院ですが、歌もなかなか激しい。
この歌の詞書は
題しらず 新院御製
だそうですから、あってもなくても一緒ですね。
ことばを見ていきましょう。
《瀬をはやみ》。
この「み」は第一首目の天智天皇の
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
の「み」や、48首目、源重之の歌
風をいたみ
の「み」と同じです。 「・・・なので」
という意味でしたね。
ですから、これは「瀬が速いので」ということになります。
《岩にせかるる》。
「せかるる」は四段動詞「せく」の未然形+受身の助動詞「る」の連体形ですね。
「せく」は「せきとめる」「さえぎり隔てる」という意味です 。
そういえば、水をせきとめるのが「堰」。
人をせきとめるのが「関」。
呼吸がせきとめられて出るのが「咳」ですな。
《われても》。
「割れても」という意味と「無理に」「しいて」という副詞「われて」が掛っていると思ったんですが、解説書にはそうは書いてなかった。
でも、きっとその意味も含まれているはずです。
さて、あとは、むずかしいことばはありませんね。
上三句は下二句を引き出す序詞なんでしょうが、そんな技巧を感じさせない直截的な比喩として力があると私には思えます。
滝川を流れ下る瀬ははやく
大きな岩に当たってはげしくしぶきを上げ
二つにわかれて流れて行く
けれども、そこで分かれた流れも
その先では必ずまた一つになるのです
私たちの恋も激しすぎたのでしょうか
私たちもまた大きな岩のような障害で別れさせられてしまいました
けれども
きっと私はあなたにお逢いします
必ずまたあなたを抱きしめます
あの滝川の水がふたたび一つになるように
「瀬をはやみ」と、激しく歌いだされた歌は、「滝川の」で、いったんたゆたい、「われても末にあわむとぞ思ふ」と一気に「逢い」に向かって滝川のようにかけ下ってゆく。
「あはむとぞ思ふ」と、あえて字余りにしてまで係助詞「ぞ」を入れて歌い終わるこの歌は、男の強い決意表明の歌ですね。
名歌です。
ふたかたに 岩に分かれて ゆく水も
末に逢うなり 私らもまた