広場のまん中まで行ったとき、とつぜん彼の内部にある衝動がおこった。
ある感じが一時に彼を領して、心身の全てをとらえつくした。
彼は急にソーニャの言葉を思い出したのである。
「四つ辻へ行って、みんなにおじぎして地面に接吻なさい。
だって、あなたは大地にたいしても罪を犯しなすったんですもの。
そして、大きな声で世間の人みんなに
『私は人殺しです』
とおっしゃい。」
この言葉を思い出すと、彼は全身をわなわなふるわせ始めた。
― ドストエフスキー「罪と罰」(米川正夫訳)―
朝刊にロシアのサンクトペテルブルクの地下鉄で爆発事件が起きた駅が「センナヤ広場駅」と書かれていた。
知っている、と思った。
行ったことはないが、知っている。
それは、「罪と罰」のラスコリニコフが歩きまわる広場だ。
そして、その終り近く、彼がソーニャからもらった十字架を胸に、そのよごれた地面に膝をつき、大地に接吻する広場だ。
そういえば、ラスコリニコフがシベリアの流刑地の病院で熱に浮かされていたころ見た夢をふと思い出す場面が、小説の最後、エピローグに書かれてある。
それは、こんな夢だ。
疫病がアジアの奥地からヨーロッパへと広がって行った。
ごく少数の者を除いて、誰も死ななければならなかった。
出現したのは新しい寄生虫の一種で人体に取り尽く顕微鏡レベルの微生物だった。
しかも、この微生物は、知恵と意志とを授かった霊的な存在だった。
この疫病にかかった人々は、たちまち悪魔に取り憑かれたように、気を狂わせていった。
そして、それに感染した者たちは、病気にかかる前にはおよそ考えもしなかった強烈な自信をもって、自分はきわめて賢く、自分の信念は絶対に正しいと思いこむのだった。
その人たちほど自分の判決や、学術上の結論や、道徳上の確信や信仰などを、動かすことができない真理だと考えたものは、またといないほだだった。
人々は村をあげ、町をあげ、国民全部がこぞって、それに感染し、発狂していくのであった。
この夢が、殺人犯の異様な夢だと誰も言わないだろう。
現代において、たしかにそんな寄生虫が世界中に蔓延していることを、私たちは知っているからだ。
この日本だとて例外ではない。
それどころか、国民すべてにその寄生虫をとりつかせようとする人たちが政権を担っているほどだ。
誰も、人にとって罪とはいったい何かを問おうとはしない。
罰とは何であるかを知ろうとはしない。
地下鉄に爆弾を仕掛けた者に、いつかセンナヤ広場で大地に口づけする日が来るのだろうか。