自分も被災しながら、津波の跡の瓦礫ばかりの広い地平で、肉親を捜す人、人、人がいる。
どなたをお捜しですか、と問われて、一人の女性がこう言った。

〈 名前を言ってしまうと、帰って来ないような気がするので、いや。 〉

 

― 秋山駿 「死を前に書くということ」―

 

東日本大震災のテレビの映像を見ていた秋山駿は、この女性の言葉に、

あっと、わたしは胸を突かれた。悲痛の思いに叩かれた。

と書いている。

本を読んでいたわたしも、そのことばに、息を呑んだ。
胸を突かれた。

昨日横断歩道のところで出会った子どもたち(あるいは「大鏡」の中の藤原道長)は、自分の願うことをことばとして声に出すことによって、己が意思を対象(世界)に知らせ、対象(世界)をそのことばに従わせようとしていた。
しかし、この女性は・・・・・。

たぶん、それまで、この女性は絶えず心の中で、捜し求める者の名を呼び続けていたはずだ。
けれど、人からそれを問われた時、
〈 名前を言ってしまうと、帰って来ないような気がするので、いや。〉
と言った。

なぜ?

わたしたちは知っている。
ことばに出せば、叶わなくなる思いがあることを。
人に聞かれれば、むなしくなる願いがあることを。

そのことを、テレビの中のこの女性はわたしたちに思い出させる。
あの子供たちが信じているのとは逆の意味での、ことばというものが本源的に持つ力、あるいはおそろしさというものがあることを思い出させる。

呼ぶために名前はあるはずなのに、その名を呼んではならぬ、と彼女に告げるもの・・・・。

思いの深さが、人を沈黙の場にとどめる。
願いの強さが、人の口をつぐませる。

そんな沈黙の深さの底からはじめて立ち上がってくることばの力がある。

そのことをわたしたちは忘れている。