わが背丈以上は空や初雲雀

             中村草田男

 

春だ。
雲雀が鳴いている。

ひさしぶりに幕張にある古本屋に行こうと、一面畑地が続く丘を歩いた。
空の高みから聞こえる声に目を上げれば、ほんに草田男の句のような朝だ。

ほんとうにあたたかい。
上着は途中で脱いだ。

 

春は草と土とに汗をかゝせる。
その汗をかわかさうと、雲雀は空に騭(のぼ)る。
瓦屋根今朝不平がない。
長い校舎から合唱は空にあがる。

 

中原中也の詩集『在りし日の歌』に、こんなふうに始まる詩がある。(「春」)

これはきっと四月半ばの新学期の頃の詩。
でも、このあたたかさだもの、こんな詩だって思い出すというものだ。

小学校のとき、学校でこんな歌を歌ったことも思い出す。

 

鳴くや雲雀の 声うららかに
かげろうもえて 野は晴れわたる
いざや わが友 うちつれゆかん
今日は たのしき遠足の日よ

 

たしか、「遠足」という題の歌だった。
中也の詩の中の校舎の窓から聞こえる「合唱」がこの歌だとは思わないが、こんな日は一人ゆく「遠足」だって愉快だ。

雲雀というと、前にも載せたことがあるけれど、やっぱり木下夕爾の「ひばりのす」という詩も思い出す。

 

ひばりのす
みつけた
まだたれもしらない

 

あそこだ
水車小屋のわき
しんりょうしょの赤い屋根のみえる
あのむぎばたけだ

 

小さいたまごが
五つならんでいる
まだたれにもいわない

 

この少年、「ひばりのす」を見つけたとき、どんなにドキドキしたろう。
息をこらして、そうっと、そうっと、麦畑を後じさりしながら水車小屋のある道まで戻ったかも知れない。

これは秘密。
「たれにもいわない」。
たれかに言えば、なんだか、その小さなたまごがこわれてしまいそうなんだもの。

ことばというものが、それを口にすれば、自分の大切な何かを変えてしまう力を持っていることにこの少年はもう気づいてしまっている。
ことばに対する心の畏怖は、わたしたちが思っている以上にずっと根源的なものだ。

 

ことばに対する畏れも知らず、ことばというものを単なる道具(いわゆる、コミュニケーション・ツール)としてしか考えず、心の深いところを通すこともなく、ただ相手を言い負かすことや、その場逃れのためだけにことばを使い、まるで息をするようにウソをつき続けた者たちのあわれな末路がどうやら始まろうとしている。

あと一月もしたら、あの者たちも職を去り、同じ丘を歩きながら、「海潮音」の中のこんな詩を、心から口ずさみ楽しめる日も来るだろうか。

 

時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)名のりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、空にしろしめす。
すべて世は事も無し。

 

 

  ―  ロバアト・ブラウニング 「春の朝」(上田敏 訳) ―