外(と)にも出よ触るるばかりに春の月

 

 

                  中村汀女

 

草はらのところどころにブタクサの黄色い可憐な花が頭をもたげている。
夕刻、まあるいお月さまが東の空にのぼって来た。
五月、しかも今日は最高気温も28度を超えたと言うから、もう夏なのだが、それでもこんな俳句が思い浮かんだのは、濡れたような大きな月がゆらゆらのぼって来たから。

 

この前読んだ塚本邦雄の本(「秀吟百趣」)によれば、この句は「艶のあるアルト」で歌われていると言う。
なるほどそうか、思う。
以下、彼の評言を写してみる。

 

署名を消してもこの句は男手(おとこで)に成つたものとは絶対思へまい。
男が女に代わってものした作品でもない。
類想は男にもあろう。
修辞に女の印は入ってはゐない。
にもかかわらず一句の優美なたたずまひに、匂やかな言葉の響きに「女」は紛れもない。
それは人間の牝といふ観念からは無限に遠い、一つのやはらかな、芳香を秘めた発光体としての「女なる性」から生まれた十七音であった。
「外にも出よ」の「にも」ににじむ優しさ、「触る」ることのあはれ。
そしてこのうるほひをこめた命令形の初五は、少女や妙齢の語勢ではない。
人妻、しかも人の子の母の持つ、大らかなあたたかみすら感じさせる。
雅やかな官能性に仄かな母性の匂ふ句、そのやうな例が果たして今日まで幾つあったらうと、私は句の中の朗々たる月光に照らされて立ちつくす。

 

すごいなあ!
この俳句、もともと好きだったが、こんな評言を読むと、好きな曲をとてつもない名手がきらびやかな声で歌うのを聴いているようで、私はすっかり酔ってしまうのだった。